Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

Good bye 2016

記録用にことしよく聞いたCDやトラックの振り返りを。もうなんかますますJPOPしか聞かない感じになってきました。


いちばん聞いたアルバムは「Off The Wall」のリマスター。特典にチョークが付いてて困惑したが、ドキュメンタリーBlu-rayは最高だった。これまでのディスクはオリジナルの収録曲のあとにインタビュー音声などのボートラがくどくどとついていて邪魔だったのだけれど、今回は潔くオリジナルのまま収録。車の中で聞きやすくなりました。

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『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー)

The Texas Chain Saw Massacre/1974/US

あまり怖いものが得意ではない恋人が『悪魔のいけにえ』の爆音上映に付き合ってくれた。「ほんとうに大丈夫?」と何度か念押ししていたけれど、見終わったあとは案の定青ざめた表情で「怒らないで聞いてほしいんだけど…苦手」と肩を落とした。そうだよなあ、そうなるよなあ。でもなんだかはっとさせられもした。くりかえし見ているうちに、すっかり忘れてしまっていたけれど、私も初めてこの映画を見たとき、安酒を飲み干したような激しい悪寒と吐き気に襲われたのだった。『悪魔のいけにえ』の今日的な評価とか映画史的な位置づけなど知ったこっちゃない人間の、ごくまっとうな反応に触れたことで、この映画がほんらい持っている「毒」を思い出した。
 『悪魔のいけにえ』の魅力を伝えることは難しい。私も好きな映画について、へたくそなりに言語化しないと気が済まないたちだけど、不快な金切り声と野蛮な暴力が吹き荒れるこの映画を前に、お行儀のいいモラルやロジックは無効化してしまった。それなのに、この映画が心に残した傷跡は、いつまでもズキズキとうずき、うみとなり、そのうちかけがえのない映画体験に変わっていた。

 酷暑につつまれた真夏のテキサスで、何者かが墓を暴き、遺体でオブジェをつくる異常な事件が頻発していた。太陽の表面爆発をとらえたタイトルバックにラジオのニュース音声が重なる。石油施設の爆発、蔓延する伝染病、若者の自殺、警官への暴行…といやなニュースばかりが報じられる。焼けつくようなアスファルトの上でアルマジロが野垂れ死に、そのうしろを一台のバンが通り過ぎていく。あまりの暑さにアメリカ全体に狂気と暴力が充満しているような強烈なオープニングで、『悪魔のいけにえ』は幕を開ける。泥沼化するベトナム戦争を背景に、じっさいこの時期のアメリカには狂気と暴力が吹き荒れていた、と私はおもう。
 バンには、サリー、ジェリー、フランクリン、カーク、パムの4人の若者が乗り組み、かつてサリーが住んでいた家へと向かっている。サリーとジェリー、カークとパムは恋人同士で、車いすに乗ったフランクリンはサリーの兄(弟)だ。ハイウェイの脇には、牛を殺し、食肉へと加工する工場が建っていた。屠られる牛たちの糞尿とよだれ。まがまがしい「死のにおい」がバンのなかに侵食してきたとき、若者たちは泥沼のような悪夢にはまりこんでいく。きちがいじみたヒッチハイカーに遭遇し、ガソリンが尽き、川の水は涸れ、不自由な巨体を持て余したフランクリンが不満をたれながす。暑さと渇きが画面をむしばみ、じりじりとした苛立ちが募っていく。
 16ミリフィルムの粒子の粗い画面から、一見してプリミティブで粗削りな印象があるが、くり返し見ていると、その編集や音響設計は細部まで計算し尽くされていることに気がつく。『悪魔のいけにえ』には若きフーパーの才能と心血がほとばしっているが、決して若さと勢いだけで作られたわけではないようにおもう。レザーフェイスの初登場シーンは、撮影、編集におけるフーパーの天才が味わえる名場面だ。極限まで煮詰めた狂気と暴力が一気に噴き出し、映画は加速度的にドライブしていく。

 ガソリンを譲ってもらうため、カークとパムは白い家を訪ねる。うなりを上げる自家発電機、木にぶらさげられた奇妙なオブジェ、乾いた音を立てて転がり落ちる人の歯。カークが玄関から中をのぞくと、奥の部屋の壁に牛の頭蓋骨が飾られている。平凡な家のすきまから、完全にヤバいものがだだ漏れている。観客からすれば、もう明らかに「入っちゃダメ」って感じがしてる。それなのにカークは家の中に足を踏み入れてしまう。廊下でつまづいたとき、ほんとうに突然、なんの脈絡もなく「やつ」が登場する。画面がカークの主観ショットに切り替わり、カメラは肉屋のエプロンを身に着けた大男をゆっくりと見上げる。映画史を代表する殺人鬼、レザーフェイスのお出ましだ。次の瞬間、まるで牛をたたき殺すようなすみやかさで、カークの脳天にハンマーが振り下ろされる。昏倒し、けいれんを起こすカークに、これまた冷静な手つきでとどめの一撃を食らわせる。この身もふたもない手際のよさ。人を殺すというより、ものを壊すような即物性に慄きながら、私たちは理解する。ああ、この大男にとって私たちは人間ではなくて、一匹の動物…屠られる肉塊にすぎないのだな、と。

 パムもまた「魔の家」へと引き寄せられていく。ブランコの下をくぐりぬけ、パムの背中を追い続けるカメラが、夏空と白い家を映し出す。劇中でもっとも恐ろしく、美しいショットのひとつだ。私たちもまた、この家の磁場から逃れられない…そんな気持ちにさせるし、まるで家の方からこちらに迫ってくるようにも見える。もはや抜けるような夏の空も、牧歌的な白い家も、つい数分前とは違ってまがまがしいものに変わっている。家に足を踏み入れたパムは、おびただしい人や動物の骨でつくられた異常な芸術作品を目にする。美術のロバート・A・バーンズが作り上げたこの部屋は、おぞましくも独自の美意識を感じさせる。吐き気におそわれたパムはすぐさまレザーフェイスにつかまり、またもや家畜のように食肉用のフックに吊るされる。そして目の前では恋人がチェーンソーで解体されている。『悪魔のいけにえ』には鮮血や切り株といった直接的なゴア表現はほとんどないが、見る者の痛覚は刺激される。「見せない効果」を熟知した恐怖映画の正統なマナーが貫かれているんですよね。

 夕暮れ時にはジェリーが白い家を訪ね、レザーフェイスの犠牲になる。ジェリーを撲殺したあと、窓際に座って頭を抱えるレザーフェイス。あきらかに途方に暮れていて、「なんで俺がこんな目に」とでも言わんばかりだ。レザーフェイスの意外な臆病さが垣間見えて、映画全体も奇妙なユーモアを帯び始める。この場面を契機として、物語の主役は5人の若者たちから、得体の知れない殺人一家にシフトしていく。じっさいすぐ後にフランクリンもあっけなくレザーフェイスに殺され、以降サリーはほぼ最後まで絶叫し、逃げ回っているだけだからだ。
 反対にはじめは狂った異物でしかなかったレザーフェイスやヒッチハイカーは、彼らなりの倫理観や哲学、常識の中で生きていることが明らかになってくる。レザーフェイスはサリーの絶叫にびっくりしたり、ドアを壊したことを兄のコックに叱られたりと、ほとんど臆病者のようだ。人皮マスクや服装も、肉屋スタイルだけではなくて、料理をするときは母親風、食事をするときはスーツといった具合に、彼なりのこだわりをうかがわせる。フランクリンが使っていた車いすが、きれいに畳まれてキッチンに置かれているのもいい。「レザーフェイスが片付けたのかなあ」と想像するとなんだかほっこりした気持ちになる。『悪魔のいけにえ』が今も色あせない魅力を放っているのは、レザーフェイスをはじめとする狂った殺人一家が、愛すべき人間くささをまとっているからではないか。
 細かいしぐさやせりふ、小道具から一家の「人間性」がのぞき、こわいと同時に、そこはかとなく可笑しい。この映画をコメディとして見る人もいるとおもうし、じっさい作り手も意図して笑いの要素を取り入れていた。映画はどんどん悪ノリを増し、恐怖と笑いがせめぎあう狂ったパーティーへとなだれ込んでいく。切り傷からサリーの血をチュウチュウと吸いながら爺様が軽快に踊りだす。気絶したサリーが目を覚ますと、今度は干し首のランプやニワトリの頭で飾られたテーブルで一家が食事しているという、さらに狂った光景が広がっていた。ふたたび絶叫するサリーと歓喜の声を上げる一家…見ているこっちがおかしくなってきそうだ。サリーの目の前にはごていねいに食器が並べられている。レザーフェイスが準備したのかな、と想像できてやっぱりちょっと笑える。

隙を突いて逃げ出したサリーが、窓を突き破り、ついに家の外に脱出する…!文字どおり目が覚めるような鮮烈な場面転換。夜は明けて、悪夢は終わろうとしている。サリーを追ってきたヒッチハイカーはトレーラーに豪快に轢殺され、レザーフェイスはチェーンソーで自分の太ももを切って悲鳴を上げる。命からがらに逃れた血まみれのサリーは、けたけたと高らかに笑う。彼女もまた一家の狂気にからめとられてしまったのだろうか。そして、映画史に刻まれるラストシーンがくる。朝日をバックにチェーンソーを振り回しながら踊るレザーフェイスを映し、画面が唐突に暗転。ようやく訪れた暗闇と静寂の中で、私たちは安堵のため息をつく。だけれど、83分で脳裏に焼き付いた悪夢からは、もう逃れることができない。

2015年のおわりに(音楽編)

もうことしも暮れですね。ことしからオールタイムベスト映画についてのレビューを書いていきます、なんて息巻いていましたがいそがしくてほとんど更新できませんでした。ははは。
ことしはあまり映画が見られなくて、そのぶん音楽を聞くことが多かったです。あと特に日本の音楽をめちゃくちゃ聞きましたね。一時期はJポップなんてまったく興味なかったし、言葉じたい恥ずかしくて言いづらかったけど、別にいいなと思えるようになりました。丸くなったんですかね私も。そんなわけで、新譜旧譜問わずことしよく聞いたアルバムをまとめておきます。順不同。

Blur『the Magic Whip』(2015)

The Magic Whip

The Magic Whip


正直、もうブラーにお金を使うことはないだろうくらいの覚悟でボックスセット買ったので、新作リリースのしらせには仰天した。「12年ぶり」という言葉もなんだか感慨深かった。12年…。「Think Tank」のリリース年に生まれた子供が小学6年生になっている。私は高校生だったけど、30歳になってしまった。しかし肝心の内容は12年という歳月を感じさせないまぎれもなくブラーなアルバム。これまでのディスコグラフィの中でどのアルバムの後においても、それなりに納得してしまいそうな。どのアルバムの要素もちりばめられたアルバムです。My Terracotta Heartがお気に入り。

Snoop Dogg『Bush』(2015)

Bush

Bush


正直スヌープに興味持ったことなかったんですが、試聴してよさげだったので買いました。ファレル・ウィリアムズがプロデュース、スヌープはほとんどラップしてない感じで(笑)よくもわるくもファレルの音になっている。個人的には昨年のファレルのアルバムよりもよかったです。ただ旧来のスヌープのファンはどう思ったんだろう…。

トロールズ『Renaissance』(2015)

Renaissance

Renaissance


今までさまざまなアーティストや文化人の口からその名を聞いていたが、音源をライブ会場でしか売らないためにまったくどんなバンドかつかめなかったペトロールズが結成10年にして初めてフルアルバムをリリースした、という事実。地味にニュースでした。

スチャダラパー『1212』(2015)

1212 【DVD付初回限定盤】

1212 【DVD付初回限定盤】


自分の立つ場所でリズムを刻み、ライムをつぶやけば、もうそれは立派なヒップホップなのだ。おっさんにはおっさんにしかできないラップがあると教えてくれるSDPの最新作。変わらず笑わせてくれて、変わらず勇気をくれる。

星野源『Yellow Dacer』(2015)


アイドル的な人気も含めて完全に21世紀のオザケンと化している星野源の4枚目。ルーツである黒人音楽をこれまで以上に打ち出しつつも完全に「イエローミュージック」。マイケル・ジャクソンにささげた「SUN」は聞いていると落涙してくる。マイケルの「Off The Wall」と松田聖子のレコードの間におきたい。おおげさでなくてそんなアルバム。これは事実上ことしのベスト、かなあ。

Base Ball Bear『C2』(2015)

C2

C2


前作で完全に打ちのめされたベボベのメジャー6作目。タイトルから「第2ステージ」に進むメンバーの気概が感じられます。もちろん内容からも。エイティーズディスコ感の『それってfor誰』と粘り気のあるベースラインにしびれる『文化祭の夜』、黄金メロディーのギターポップ『不思議な夜』とシングルが続き、どんなアルバムになるんだと思ったけど、予想以上に正面から「日本語ギターロック」に根ざしていて驚いた。もっと「黒い」アルバムになると思っていた。そういう意味では彼らも「イエローミュージック」の誠実な実践者といえるのかもしれない。SNS社会への痛烈な皮肉に始まるアルバムは、しかしコミュニケーションへのかすかな希望へと着地する。社会への観察眼と自己批評を行き来する歌詞はもはやヒップホップ的。

荻野目洋子『ヴァージ・オブ・ラヴ』(1989)

ヴァージ・オブ・ラヴ(日本語ヴァージョン)

ヴァージ・オブ・ラヴ(日本語ヴァージョン)


ナラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした88年作「Verge Of Life」を日本語で収録しなおしたもの。レコーディングのため再度渡米したというエピソードが実にバブリー。内容もバブリーで最高です。こんなアルバムがあったの知りませんでした。ナラダ・ウォルデンも脂が乗りきっていい。やや経年劣化はいなめないが、『Is It True』、『Postcard From Paris』はいまでも通用するでき。

Alton Mcclain & Destiny『It Must Be Love』(1978)

クレイジー・ラヴ

クレイジー・ラヴ

  • アーティスト: アルトン・マクレイン&デスティニー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2014/05/21
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログを見る

ユニバーサルのフリーソウル名盤が多数リイシューされたが、もたもたしているとあっという間に廃盤になってしまった。もっとほしいアルバムたくさんあったのだが。

Sugar Babe『Songs』(1975)

いわずとしれた名盤の最新リマスター。さすがにこだわりぬいた音質でした。

松田聖子『Sqall』(1980)

SQUALL

SQUALL


ことしは聖子ちゃんめっちゃ聞きました。『ユートピア』や『Pineapple』もいいですが、やっぱりファースト1番好きです。ひとつひとつの音からもう松田聖子という才能を祝福し、うれしくて仕方がない感が伝わってくる。

松田聖子風立ちぬ』(1981)

風立ちぬ

風立ちぬ


だいたい夏と冬にそれぞれ聞きたい名盤を毎年2回、当然のように連打しているのがどうかしている。A面はすべて大瀧詠一、詩も松本隆が初めて全曲を手掛け、ひとつの頂点を極めた傑作です。好きすぎる。

SPEED『Starting Over』(1997)

Starting Over

Starting Over


私の中の「女子」の概念が形になったらたぶんこのアルバムになるんじゃないですかね。

おおたか静流にほんごであそぼ 童謡』(2014)

NHKにほんごであそぼ 童謡(どうよう)

NHKにほんごであそぼ 童謡(どうよう)

NHKの教育番組「にほんごであそぼ」の童謡コーナーを音源化。ずっとパッケージ化を待ち望んでいたのだけれど、いつのまにかリリースされていました。事実上おおたか静流のアルバムですね。ボサノバ調の「スキー」、調子っぱずれのピアニカがかわいい「マーチング・マーチ」など意表をつくアレンジもいい。「朧月夜」「鉄道唱歌」「ふるさと」など日本語詞のうつくしさに陶然とする。20曲もあって38分。もうこのアルバムしかいらないと思っていた時期ありました。

Sleeper『Smart』(1995)

Smart

Smart


ひょんなことから高校時代に編集したUKロックのミックスアルバムを発見して、なんとなくブリットポップを聞き直していた。そんな中再発見したバンド。アマゾンのレビューがすごくよかったのでそのまま引用します。「最近よく、ブリットポップを見直すというお話を雑誌やらで見かけ、20代の洋楽好きのワタシとしては懐かしいかぎりです。ていうか、ブリットポップって要はオアシスそのものだったよな?というような、どこかでLive foreverがかかれば合唱し、 Wonder wallの咳払いでドキンとしちゃうような方に聞いてもらいたいアルバムですね、これは。作詞・作曲・ボーカルのルイーズ嬢はとても魅力的なバンドの紅一点。おみこしじゃないですよ。極上のメロディにざらついたギターがグッドスメル!癖になるハスキーボイスで捨て曲無し!色あせない名盤です。このアルバムには間違いなく、あのころの奇跡的な空気が詰まりまくってます、完全なブリットポップの一つをここに発見してください。映画の中で一番かっこよかったな、復活希望。」

V.A.『The Breakfast Club: Original Motion Picture Soundtrack』

ブレックファスト・クラブ-オリジナル・サウンドトラック

ブレックファスト・クラブ-オリジナル・サウンドトラック

  • アーティスト: サントラ,シンプル・マインズ,エリザベス・デイリー,ワン・チャン,ジェシー・ジョンソン,カーラ・デビト,ジョイス・ケネディ,ステファニー・スプライル,キース・フォーシー
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック
  • 発売日: 2015/10/07
  • メディア: CD
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ことしは『ブレックファスト・クラブ』の公開30周年のメモリアルイヤーってことで、サントラの再発や新たなマスターのBlu-ray発売など何かと見返すことも多かったです。

そのほかよく聞いた楽曲。
守谷香『マジカルBoy マジカルHeart』

土岐麻子『セ・ラ・ヴィ〜女は愛に忙しい』

MISIA『つつみ込むように…』

Klique『I Can't Shake This Feeling』

Nona Reeves『パーティは何処に?』

Honey and the bees『Love Addict』

シブヤ1997―『ラブ&ポップ』(庵野秀明)

Love & Pop/1998/JP

 『新世紀エヴァンゲリオン』第1話の時代設定は2015年6月22日。つい先日ようやく過ぎたばかりだ。セカンドインパクト使徒襲来もなかったか…と感慨にひたりつつ、はたして今の日本に碇シンジのような少年が存在しうるのかと考えた。もちろん現代にもシンジ君のようにナイーブな中学生はいるのだろう。だが『エヴァ』があれだけ熱狂的に迎えられたのは、シンジ君の抱える屈折があの時代、格別に共感できるものだったからだとおもう。 
 庵野秀明監督が初めて手掛けた実写映画『ラブ&ポップ』は1997年8月からわずか一か月で撮影され、翌年の1月に公開された。原作は、当時の社会現象だった女子高生の援助交際を取材した村上龍の同名小説だ。
 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(いわゆる『夏エヴァ』)の公開は同年7月19日。「時代の寵児」だった庵野が、流行のトピックスで映画を撮る。とんだ「生もの企画」だ。実際、今の目で『ラブ&ポップ』を見返すとある種の経年劣化を感じずにはいられない。DVカメラを駆使した「斬新な」映像と編集、内省的なモノローグ、ルーズソックス、エリック・サティ川本真琴、ダンス、パソコン、歌の大辞テンダイヤルQ2…すべてがなつかしく、そして色あせている。それでも、いやだからこそ、この映画はほとんどドキュメンタリーのような生々しさで見るものに「97年」の気分を伝える。
 
 『ラブ&ポップ』は、東京郊外に住むごくふつうの女子高生、吉井裕美(三輪明日美)の一人称で進行する。裕美が友人らと過ごす休日の1日を、回想や幻想を交え、時系列で語っていく。その1日とは1997年7月19日。そう、「夏エヴァ」の封切日だ。
 37歳の内向的なおじさんが心身ともにぼろぼろになりながら、ようやく完成させた作品の公開初日、女子高生たちは能天気に渋谷に水着を買いに出かける…。この残酷な断絶。わざわざこの日を舞台に選んだことに、「おじさんと女子高生は理解しあえない」という庵野の冷徹で謙虚な前提が透けて見える。だいいち原作にしたって所詮は「おじさんが書いた女子高生の物語」なのだ。
 決して理解しあうことはないように見えるおじさんと女子高生は、しかし「援助交際」という特殊な結びつきの中で近接する。村上龍は女子高生の視点を借りて、日本中の誰もが抱えていた疎外感、空白感を切り取った。そして当時、それを誰よりもクリアに視覚化できた映像作家が、おじさんと女子高生の交差点に立つ庵野だったとおもう。
 一見すると、裕美の「主観」に見えるが、巧みに「客観」が介在する。カメラは、裕美の衣服や電子レンジの中などあらゆる場所に忍び込み、彼女の日常を「観察」する。主役の三輪本人ではなく、映画監督の河瀬直美がモノローグを担当することで微妙なズレを生んでいる。
 過剰な情報を受け取りながらも、見る者は主人公・裕美の心の中になかなか立ち入ることができない。それどころか、彼女の生活と心を、物陰から覗き見ているかのような居心地の悪さがつきまとう。会話シーンを中心に「ナメ」の構図が多用されるのも、作品の窃視性を際立たせる。
 こうした居心地の悪さは、作品の主要なテーマにも関わっている。「さびしさ」こそが本作の基調になっているからだ。市川崑に直球のオマージュをささげたタイトルクレジットの直後、裕美のこんなモノローグが入る。 

世の中のものは唐突に変わるときがある
男も女も 大人も子どもも お父さんだって2回変わった人がいる
生きていた人もある日、お墓や写真に変わる
目に見える形がいつの間にか消えてなくなっていく
心の中のかたちも変わっていく
あいまいになっていく

 物事や感情が時とともに乱暴に移り変わっていくことの怖さとふしぎさ、そしてさびしさ…。移ろいゆくものへのささやかな抵抗として裕美はカメラを手にする。
 消費と享楽の時代が終わり、急速に情報化が進んだ90年代、人々は「変わらないもの」を失い、孤独を深めていった。ある人は援助交際に、ある人はカルト教団に「変わらないもの」を求めた。裕美の高校の友達、ナオ(工藤浩乃)、サチ(希良梨)、チーちゃん(仲間由紀恵)も「変わらないもの」をさがし、もがいている。
 プロダンサーの夢へ踏み出すサチの言葉を聞き、裕美は「アンネの日記のドキュメンタリー」を見た日を思い出す。

恐ろしくて、でも感動して泣いた
いろいろ考えて、心がぐしゃぐしゃだった
でも次の日には、心がすでにつるんとしている自分に気づいた
自分の中で何かが「済んだ」感じになっているのが
不思議で、いやだった
サチはきっとその感じがいやでダンサーになる決心をしたんだと思う


裕美の「さびしさ」が丁寧につづられる序盤の30分をへて、物語の推進力となる「指輪」が登場する。「心がどきどきする」。恍惚に浸りながら裕美は、その気持ちが時間とともに失われることを経験的に悟る。指輪はきょうのうちに手に入れなくてはいけないし、その方法は援助交際しかない。その考えは端的に間違っている。間違っているのだが、これまでの物語の積み重ねが彼女のモチベーションに説得力を持たせている。さりげなくちりばめた「手」をめぐるイメージも効果を上げている。ほかの3人の協力を得て、すぐに購入資金12万円を得るが、裕美は受け取れない。理由は「みんなと対等でいたかったから」。3人に対する裕美の劣等意識が語られているため、すんなりとのみ込める。裕美はほかの3人と別れ、自分一人の力で指輪を買うと決意する。
 「さびしさ」はむしろ、援助交際をする男たちの方に顕著だ。原作者や監督にとって、女子高生の主人公たちより、彼女たちにカネを払うおじさんたちのほうがよっぽど理解しやすいのかもしれない。俳優陣も実力派かつ個性派ぞろいで作品に奥行きを与えている。

しゃぶしゃぶの男、ヤザキ(モロ師岡)。道端で裕美とサチに声をかけ、しゃぶしゃぶをごちそうしながら説教を垂れる。

グルメの男、ヨシムラ(吹越満)。道端で裕美とナオに声をかけ、自宅マンションで手料理をふるまう。

マスカットの男、カケガワ(平田満)。裕美たち4人が口に含んだマスカットを計12万円で買い取る。

レンタルビデオの男、ウエハラ(手塚とおる)。自分を馬鹿にしている(と思い込んでいる)レンタルビデオ屋の店員に見せつけるため、裕美に恋人のふりをしてほしいと依頼する。

キャプテン××の男(浅野忠信)。『キャプテンEO』のファズボールとみられるぬいぐるみと会話する奇妙な男。裕美とラブホテルに入り、ひどい目に合わせる。

携帯電話の男、コバヤシ(渡辺いっけい)。裕美が援助交際で使う携帯電話の持ち主。ゲイの物書きで、援助交際相手としては関わらないが、「キャプテン××の男」の発言の解釈を、裕美に教える重要な役割を担っている。
 孤独とコンプレックスを抱えながら、女子高生にカネを払い、欲望を成就させようとする。援助交際という関係でしか自分をさらけ出すことのできない哀れで滑稽な男たち。どいつもこいつもろくでなしだが、私には彼らの孤独や鬱屈がわかる気がする。女子高生の冷たい視点を通して描かれる男たちの群像にこそ、本作の真骨頂があるのではないか。
「キャプテン××の男」から怖い目にあわされ、裕美は指輪を手に入れることに失敗する。自宅に戻り、バッグの中に指輪を探すがもちろん見つからない。カメラからフィルムが抜き取られていることに気づき、再び装填しようとするが、途中でやめてしまう。もはや写真では「今」をつなぎとめることはできないと気づいてしまった。ここで、ナレーションの河瀬と裕美役の三輪が、劇中で初めて言葉を交わし、文字通りの「自問自答」が始まる。河瀬のモノローグは欲望とさびしさの関係について説明する。

自分には何かが足りないと思いながら、友達とはしゃぐのは難しい。
何かが足りないという個人的な思いはその人を孤独にするから。
時がたてば、あの指輪とのつながりもゆっくりと消えていく。
何ががほしい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、
それはとても難しい。

「きっと私にはできない」。自信喪失した裕美は、空のフィルムケースの中に「キャプテン××の男」のメッセージが入っていることに気づく。「お前だけに教える××の本当の本名 ミスター ラブ&ポップ」。ファズボールのぬいぐるみ付けた彼だけの「本名」だった。裕美が尋ねても、教えようとしなかった名前を、なぜ教える気になったのか。
ヒントとなるのはせりふに登場する映画『シベールの日曜日』だ。裕美がウエハラと入ったレンタルビデオ屋でも一瞬だけパッケージが映る。原作は、裕美が「『シベールの日曜日』を今度見てみよう」と考えるところで締めくくられる。
 1962年のフランス映画『シベールの日曜日』は、傷ついた戦争帰還兵の男と孤児院の少女の心の交流をつづる。二人は互いの孤独を持ち寄り、疑似親子とも、恋愛とも説明できない特別な絆を深めていく。クリスマスの夜、少女は初めて自分の名前を男に明かすが、二人の「異常な関係」は社会に断罪され、男は殺されてしまう。村上龍は、「キャプテン××の男」と裕美の関係を『シベールの日曜日』になぞらえ、両者の孤独と共感にある種の「希望」を描こうとした。いびつで、出来損ないの「希望」である。
 村上は原作のテーマを「前駆的な希望」と説明する。確かに現代社会のなかに「希望」を見つけることは難しい。「希望」という言葉だけはあふれているが、誰も具体的に示すことができないし、そんな大人たちのウソを女子高生たちは敏感に見抜いている。だけれど、いつかは希望になれるかもしれない「前駆的なもの」いわば「希望の胎児」なら、物語で提示できるのではないか。そんな思いで小説を書いたという。

 映画『ラブ&ポップ』に「希望」が映っているとすれば、それは間違いなくエンディングだろう。三輪明日美が歌う調子っぱずれの「あの素晴らしい愛をもう一度」に合わせ、主役の4人が渋谷川を歩く様子を、長回しのドリーショットでとらえている。全編をDVカメラで撮影した中で、エンディングだけは35ミリフィルムで撮っている。だからフィルム上映で本作を見たとき、粗いキネコ映像が、エンディングで一気に鮮明になる。画面サイズも広がり、開放感をもたらす。じっさい脚本には「フィルムのありがたみを感じる観客」というト書きまであった。
当初は、まったく別のエンディングが準備されていた。主人公4人が砂浜で遊んでいる映像に、山口百恵の「ひと夏の経験」(曲を選んだのはプロデューサーの南里幸)が流れるというものだ。じっさいに宮古島ロケで撮影までされたが、ボツになり、渋谷川のバージョンに差し替えられた。結果、日本映画史に刻まれるエンディングになった。
 もしエンディングが当初の予定通りだったとしたら、『ラブ&ポップ』はひどくつまらない映画になっていただろう。海辺ではしゃぐ4人がどんなに楽しそうだったとしても、その姿は「希望」になりえないからだ。見るからに汚い渋谷川を4人の少女が前を向いて、歩く。水しぶきを上げ、泥まみれのルーズソックスで、不機嫌そうに、退屈そうに。彼女たちが生きるのは、宮古島の海岸なんかじゃない。渋谷のどぶ川のように、みじめで冷たい世界だ。それでも立ち止まらず、振り返らず歩く。不ぞろいな歩みとへたくそな歌謡曲。だけれど私はいつも、そこに確かな「希望」を感じるのだ。

ラブ&ポップ SR版 [DVD]

ラブ&ポップ SR版 [DVD]

ラブ&ポップ 特別版 [DVD]

ラブ&ポップ 特別版 [DVD]

 現在、販売されているソフト(SR版)はデジタル映像をそのまま収録しているので、フィルム上映の衝撃を追体験することはできない。1999年に発売されたDVD(特別版)だけは唯一、キネコ版を収録している。もし、このエントリを読んで『ラブ&ポップ』に興味を持たれた人がいたらこの特別版DVDを見るのがおすすめです。もちろんこの先、フィルムで映画がかかることがあれば、何にも差し置いて見に行くことを薦めます。

初恋の呪い―『ローラ』(ジャック・ドゥミ)

Lola/1961/FR

 『ローラ』はジャック・ドゥミ監督の長編第1作だ。ドゥミと聞くと『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』に代表されるめまいがするような色彩感覚と甘いメロディーに彩られたミュージカル映画を思い起こす人も多いとおもう。『ローラ』はモノクロ映画でミュージカルでもないが、港町、水夫、シングルマザー、踊り子などドゥミ作品における主要なモチーフは、ほぼすべてそろっている。今でこそ国内でソフト化され、上映される機会も増えたが、完成から長い間日本で『ローラ』を見るチャンスはごく限られていた。「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と評したジャン=ピエール・メルヴィルをはじめ、名だたる映画作家が贈る賛辞を聞いては、想像し、恋い焦がれるほかない「夢のフィルム」だった。日本での初公開は1992年だが、当時7歳の私はもちろん見ていない。
 私が初めて『ローラ』を見たのは2007年3月20日。渋谷のユーロスペースだった。あの夜を今も鮮烈に覚えている。胸をかきむしるような切なさにとりつかれ、ふらふらと映画館をあとにした。電車に乗っている間も、アパートに帰ってからも、ベッドに入ってからも、美しいナントの風景が、愛すべき登場人物たちが、ベートーベンのシンフォニーが、頭から離れない。心を盗まれるとはきっとああいうことを言うのだろう。映画には、人の生き方を決定的に狂わせてしまう魔力があるのだと私は初めて突きつけられた。それはもう、ほとんど恋としか言いようがなかった。
 そして、あの夜から8年が過ぎた。映画の中でローラ(アヌーク・エーメ)は7年間も恋人を待ち続ける。当時はずいぶんと長い時間に思われたが、今はそうは思わない。この8年間、あの夜の陶酔とフィルムへの恋心が、私の中で色あせることはなかったからだ。
 ただ、この映画についてまともな文章は書けなかった。ラウール・クタールのカメラがとらえた光のように、『ローラ』のうつくしさははかなく、つかみどころがない。だから『ローラ』についてつづると、いつだってやたらと感傷的な、できの悪いラブレターのようにしかならなかった。今回もそうなるとおもうが、30歳を前にもう一度この負け戦に挑むことにした。

 『ローラ』はドゥミのふるさとでもある港町ナントを舞台に3日間の人間模様を描いた群像劇だ。初恋の相手を7年間も待ち続けるシングルマザーの踊り子ローラを中心に、複数の登場人物が交わり、あるいは交わることなく物語を織りなしていく。冒頭、海岸沿いの道路に白いオープンカーが滑り込み、タイトルが現れる。ここで流れる短く美しい旋律はドゥミが敬愛する映画監督マックス・オフュルス『快楽』からの引用である。タイトルクレジットのかたわらには「マックス・オフュルスに」と律義に記されている。そもそもローラという名前じたいがオフュルスの代表作『歴史は女で作られる』(原題『ローラ・モンテス』)からの取られているとの説もあるが、実際は『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)からのようだ。
 いずれにせよヌーヴェルヴァーグ一派の例にもれず、ドゥミもまた愛する映画へのオマージュを映画のいたるところに忍ばせている。ただ『ローラ』が真にすぐれているのは、こうしたオマージュが自然に物語に溶け込み、教養主義におちいっていない点だ。『ローラ』を見るために、知識はいらない。必要なのは誰かをはげしく恋い焦がれながら、敗れ去った苦い記憶だけだ。
 ドゥミ作品のなかでは、多くの人々がすれちがいを繰り返す。『ローラ』はわけても、めまぐるしいすれちがいが繰り広げられる1本だ。冒頭の数分間だけで、すでに幾多のすれちがいが描かれている。オープンカーの男、アメリカの水兵フランキー、そして主人公のローラン・カサール。3人の男はおのおのがローラというひとりの女性を介して関わりを持ちながらも、互いに言葉を交わす瞬間はついに訪れない。劇中で彼らは何度もすれちがうが、互いの存在をほとんど意識しない。観客だけが彼らの「近くて遠い」ふしぎな距離感を目撃することになる。自分のまわりでも、同じようにすれちがい、出会わなかった人がいるのだろうか。そんな想像をかき立てる。「出会わない運命」を丹念に描きつくしているからこそ、ドゥミの映画のなかの「出会い」は運命的で、息が詰まるほどにドラマチックにみえる。

 主人公のローラン・カサールはいかにも頼りないダメ男である。登場早々に寝坊した上に、会社の上司には「読書していた」と悪びれもせず遅刻の言い訳をし、当然のようにクビになる。そのくせ口だけは達者で、行きつけのカフェで女主人と常連客を相手に理屈ばかり並べている。ジャック・ベッケル監督の傑作脱獄映画『穴』で知られるマルク・ミシェルが、無気力でペシミスティックな青年を好演している。物語が進むにつれ、彼の心に影を落とす戦争の傷跡が明らかになる。「たった一人の友達だったポワカールも殺された」というせりふはもちろん、ゴダールの『勝手にしやがれ』への目配せだ。自暴自棄になったカサールはポワカールと同じく犯罪社会に足を踏み入れかけるが、初恋の相手ローラ(本名はセシル)との再会をきっかけに、生きる希望を見出していく。

 この映画にはローラのほかにもうひとりのヒロインがいる。カサールが書店で出会う14歳の少女セシルだ。ローラの本名と同じ名前を持つこの少女は、もちろん若き日のローラのすがたでもある。ローラの運命をなぞるようにアメリカの水兵フランキーと出会い、恋に落ちる。フランキーとセシルが祭りで遊ぶ場面は本作のハイライト。不可解だけど、あらがうことのできない恋の魔法を、これほどみごとに表現した映像を私は知らない。高揚感と官能に上気したセシルの表情。バッハの平均律クラヴィアが流れる中、駆け抜ける2人をスローモーションでとらえたショットのとろけるような甘さ。少女が恋に落ちた、まさにその瞬間を生け捕っている。
 ドゥミにとって14歳という年齢も重要だ。ローラが初恋の相手ミシェルと初めて出会ったのも14歳とされている。ローラとカサールの年齢は劇中では語られないが、俳優と同じ年とすればともに29歳。二人の再会は15年ぶりというから、カサールがローラに恋をしたのも14歳のときかもしれない。ちなみにドゥミが「生涯の1本」と崇拝し、本作でもオマージュをささげている『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督)に出合ったのも14歳だ。ドゥミが「14歳の初恋」にこだわるのは、彼自身が映画と恋に落ち、取りつかれた年齢だったからなのかもしれない。
 
 『ローラ』は、初恋をあつかった映画だ。「どうして初恋は特別なのか」。少女セシルの問いにカサールは「初恋は一度きりの特別なもので、二度とめぐってこないから」と答える。多くの人にとって初恋は、生まれて初めての相互理解への敗北だ。挫折は、いつまでも心の片隅に居すわり、私たちを縛り、傷つけ続ける。それなのに、たびたび記憶から取り出しては未練がましい後悔だけが積み重なっていく。まるで呪いのように、人々の心に棲みつく初恋という名の幻想。その甘美さと残酷さの両面を引き出したからこそ、『ローラ』は特別な映画になった。
 待ち続けた恋人がついに現れ、物語はハッピーエンドを迎える。だが、それはカサールの恋が敗れたことを意味する。初恋の「勝者(ローラ)」と「敗者(カサール)」が最後にすれちがって、映画は幕を閉じる。ハッピーエンドの充足感とともに、ほろ苦い敗北感が押し寄せてくるのはこのためだ。振り返ってカサールを見送るアヌーク・エーメのクローズアップが美しい。ディズニー映画のおとぎ話よろしく、ローラにかけられた呪いは解けた。だがそれは、彼女にとって幸せなことだったのか。憂いを帯びた表情は、きびしい現実を予感させる。
 じっさいドゥミは別の映画でカサールとローラのその後を描いている。個別の小説のなかに共通のキャラクターを再登場させ、横糸を編むことで、世界全体を描こうとしたバルザックの「人間喜劇」と同じ手法をドゥミもフィルモグラフィーのなかで実践していく。カサールは『シェルブールの雨傘』で宝石商として成功した姿を見せ、カトリーヌ・ドヌーブ演じるヒロインと結婚する。皮肉にも今度が自分が別の男の恋を打ち砕く存在になっていた。ローラは『モデル・ショップ』で夫に棄てられ、いかがわしい店のモデルに身をやつす姿が語られる。
 ドゥミの映画は一見して明るく空想的だが、その裏側には血なまぐさい暴力や戦争といった過酷な現実が潜んでいる。人々はしばしば運命にほんろうされ、引き裂かれる。ある者は自暴自棄になり、ある者は幻想を抱きつづけるがドゥミは全ての人々にひとしく、優しいまなざしをそそぐ。そして、最後は必ず希望が勝利する。理想と現実の落差に打ちひしがれながらも希望を捨てないローラと接し、カサールは気づく。「幸せを願うだけで、すでにちょっとだけ幸せなんだ。人生は美しい」。このせりふにドゥミの人生賛歌が凝縮されているのではないか。傷だらけの幻想を抱き続ける人々がいる限り、ヌーヴェルヴァーグの真珠は輝きを失わない。

ジジはなぜ言葉を失ったままなのか―『魔女の宅急便』(宮崎駿)

Kiki's Delivery Service/1989/JP

魔女の宅急便』について書きたいと、かれこれ3年くらい思い続けていました。宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作だから、特別な思い入れを持つ人も多いとおもう。私なんかよりもずっと多くの回数を繰り返し見ている人だっているだろう。私がこの作品について深く考える直接のきっかけとなったのは宗教学者島田裕巳の『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』を読んだことだ。『ローマの休日』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を「通過儀礼」という視点から分析することで、テーマやメッセージをつまびらかにする論評集で、映画(特にアメリカ映画)を読み解く格好のテキストになっている。その本のなかに『魔女の宅急便』を扱った章がある。タイトルは「『魔女の宅急便』のジジはなぜ言葉を失ったままなのか?」。ここで島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般における「通過儀礼の不在」を指摘する。「キキは、すべての好意がそのまま相手に受け入れられることを望んでいる」とし、きびしい現実に直面することなく物語が終わってしまっている点を批判している。さらにクライマックスの「トンボの救出劇」についても、キキがそれまで抱いていた葛藤の克服とまったく無関係なうえに、どうして空が飛べたのかの理由も示されないために「通過儀礼」になっていないと分析。空を飛ぶ能力が復活したのに、ジジと話せないままなのは、元通りになると「通過儀礼の不在」が暴露してしまうからだと結論している。確かに『魔女の宅急便』は、主人公をやや甘やかしすぎているきらいがある。さらに「トンボの救出劇」は、プロデューサー補だった鈴木敏夫のアイデアで付け加えられたものなので、とってつけたかのような印象がある。だからといって私はキキがまったく成長していないとは思わない。「通過儀礼」的な作劇はなされないが、『魔女の宅急便』は明らかにひとりの少女の成長譚として完成されている。そのことを書きとめておきたい。

 キキが「すべての好意がそのまま相手に受け入れられることを望んでいる」という指摘には、私も同意する。というよりも私はこれこそが『魔女の宅急便』の主要なテーマとおもう。キキは好意への他者の反応をめぐって一喜一憂を繰り返す。ほとんどそれだけで話が進むといっていい。旅立ちの日、キキの様子はどうか。晴れた夜に旅立ちたい、新しいホウキで行きたい、服がコスモス色ならいいのに―。ドラマチックな旅立ちを思い描くキキを、母親は「あまりかたちにこだわらないで」とたしなめる。キキは「わかっている」と返すが、実はまったくわかっていなかった。キキの思い描く「理想の旅立ち」は海の見える街に着いて早々にくじかれることになる。「魔女がくる」というだけで歓迎されるものとばかり思い込んでいたキキは、警察官に飛行を注意されたり、ホテルで身分証明を求められたりと想定外の反応に困惑し、すっかり意気消沈する。そこで初めてパン屋のおソノさんと出会うのだ。おソノさんに代わって客の忘れ物を届けることで、キキは住む部屋を得ることができた。空を飛ぶという才能を、人のために役立てることで初めて受け入れてもらえるのだと、キキは無意識に学ぶのだ。その後も物語は同じような他者への期待と落胆を、ほとんど弁証法的に反復していく。翌日、キキは自分の才能が少なからず役に立つことに気づき、宅急便を始める。「私、空を飛ぶしか能がないでしょう?」というせりふからも、キキが自分の才能をいくぶん謙虚に受け止めるようになったことがわかる。さっそく仕事をもらったキキは「この街が好き」と声を弾ませる。「街」はキキにとって他者そのものだ。いくつかのトラブルや新しい友達(画家のウルスラ)との出会いを経て、なんとか最初の仕事を終えたキキは「素敵な1日だった」と満足げに振り返る。

次に描かれるのは対照的に「みじめな1日」だ。仕事で訪れたおばあさんの家で、キキは孫娘の誕生日に贈るためのパイづくりを手伝い、雨の中急いで届ける。だのに当の孫娘はずいぶん素っ気ない態度でパイを受け取り「このパイ嫌いなのよね」と言い放つ。がっかりしたキキは、招待されていたパーティーにも行かずにベッドに潜り込み、翌日は高熱で寝込んでしまう…。先の島田の論評ではここからキキの魔法が失われたと書かれているが誤りだ。その後、キキは外出するときにジジと会話しているし、トンボと乗った自転車が浮かび上がったのもおそらくキキの魔法によるものだ。キキが魔法を失うのは正確にはその直後、トンボが別の友達(例の孫娘もいる)と仲良くしていることに機嫌を損ねて以降だ。
 キキの魔法はなぜ失われたのだろうか。社会学者の上野千鶴子は「なぜキキは十三歳なのか?」という論考*1の中で、キキの「性のめざめ」、要するに「初潮」のメタファーであると説明する。ひとつの有効な解釈とはおもうが、私はもう少し普遍的な思春期の試練だと感じる。まずジジとの関係に着目する。キキにとって「街」が他者だとすれば、「ジジ」は自己の分身だ。宮崎駿は当初、キキとジジを同じ声優に演じさせることを想定していた。キキとジジとの関係は親密でつねに安全だ。トンボと距離を縮め、せっかく心を開こうとしていたキキは、つまらない意地を張ることで再び他者を拒絶し、遠ざける。一方、ジジはというと、当初は「気取ってやんの」と敬遠していた近所の猫と自力で関係をきずき、閉ざされたキキとの関係から一歩踏み出す。この時点でキキとジジの成長には決定的な差が生まれ、二人の幼年期は終わってしまったのだ。
ほとんど唯一の才能だった空を飛ぶ能力とジジとの親密で安全な関係を喪失することで、キキは深刻なアイデンティティクライシスにおちいる。いよいよ真剣に他者と向き合い、自己を見つめなおさざるをえなくなるのだ。ここで重要な役割を果たすのが、画家のウルスラであり、キキが歩むべき道を指し示す*2。二人の声を同一人物が演じているのは必然ともいえる。キキは、ジジからウルスラへと自己像をシフトさせる必要があった。だから空を飛ぶ能力がよみがえっても、ジジと言葉を交わすことはできない。なぜならキキもまた、他者との関係へと踏み出してしまったからだ。
 ウルスラからアドバイスを得た後、キキは、ニシンのパイのおばあさんにケーキをプレゼントされる。自分の好意は孫娘にとってはありがた迷惑だったけれど、おばあさんにとってはやはりうれしいものであったし、無駄にはならなかった。見当はずれな期待のせいで、他者とすれちがい、裏切られたように感じることがあっても、やさしさはきっと誰かを幸せにするし、自分にも返ってくる。街にやってきた初日のストーリーを変奏し、反復したにすぎないわけだが、ゆるやかな自信回復という決着を経たうえで物語はクライマックス「トンボの救出劇」に向かっていく。おばあさんのケーキがあったからこそ、キキはためらうことなく走りだし、トンボを助けにいくことができたのだ。

「トンボの救出劇」はデッキブラシをうまく操ることができない飛行のあやうさもあいまって、息をのむスペクタクルシーンに仕上がっている。さらにこの場面は、人のために身を投げ出し、命を救う者に人々が喝采を送るという英雄譚的な味わいもある。私が思い出すのはサム・ライミ版『スパイダーマン』1作目のクライマックスです。キキの姿を見たテレビレポーターが「鳥か?」とスーパーマンを連想させるせりふを叫ぶことからも的外れではないとおもう。いずれにしてもこの場面は、キキがふたたび人のために働き、街に受け入れてもらうための「通過儀礼」として十分な役割を果たしている。


魔女の宅急便』でわけても私が素晴らしいと感じるのが、エンディングだ。スタッフクレジットのバックに後日談的な場面が描かれている。宅急便の仕事に励んだり、時計台でおじいさんと談笑したり…キキが街を愛し、また街から愛される存在になったことが丹念に描かれていている。劇中でキキが直面したさまざまな葛藤への変化もさりげなくちりばめられている。たとえばキキは街のおじいさんに借りたデッキブラシをそのまま使っている。不恰好でこっけいに見えるデッキブラシの魔女は、真新しいホウキで旅立とうとしていた冒頭のキキとは明らかに違っていて、「かたち」より「こころ」を大切にしていることがわかる。それからトンボとキキを追いかける車に乗った仲間たちには、あの孫娘の姿もちゃんとある。彼女とキキが仲良くなるようなご都合主義は避けつつも、歩み寄りへの期待も感じさせる控えめで上品な表現だ。キキが、自分と同じ格好をした小さな女の子に出会うシーンも好きだ。このときキキが見ているのが、序盤に登場したショーウィンドウの赤い靴だということにも注目したい。自分では不恰好に見えていても、誰かにとってのあこがれの存在であるかもしれない。鮮やかで繊細な自己肯定の表現に舌を巻く。そのあとはパン屋でトンボの仲間である女の子の一人と仲良くおしゃべりし、前を通った警官と手を振り合う。そう、ささやかかもしれないけど、確かにキキは変わったのだ。
 そしてラストの手紙だ。「落ち込むこともあるけれど、私この町が好きです」(キャッチコピーの影響もあり「私はげんきです」と勘違いされがち)。きっとキキは、あいかわらず他人を思いやっては、すれちがい、傷つき、落ち込んだりするのだろう。そしてまた、別の誰かのやさしさに触れるうちに、他人のために何かをせずにはいられなくなる。出会いへの期待と落胆を、おろかな一喜一憂を、繰り返しながら、それでも胸を張って「この街が好き」と言える。そんな少女に会うために、私はこれからもこの映画を見続ける。
 

魔女の宅急便 [Blu-ray]

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映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

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追記(ブコメの指摘へ)

 はてなダイアリーもことしで10年目ですが、今までで一番のブックマークをいただき本当にうれしいです。ブコメ欄にもおもしろい指摘がいっぱいであらためて皆さんの作品への思いが伝わってきます。せっかくなので考察を深める意味でもコメントに私なりの返答をしてみます。

  • 宮崎駿が、どっかで「ジジは最初から話せなくて、あれはキキが自分で生み出していた声」って言ってなかったっけ?(id:trade_heaven)
  • 魔女宅の「処女性を失ってイマジナリフレンドの声が聞こえなくなる」という展開で、カワディMAXの「コロちゃん」を思い出すぐらいには僕は汚れている。(id:napsucks)
  • 「ジジは喋らなくなったんじゃなくて、最初から全部キキの妄想だから現実に直面して夢から覚めた描写なんじゃ」ってかーちゃんが言ってた。(id:zeromoon0
  • ジジが言葉を失ったというより、キキが耳を失ったのでは??(id:heppoko1987

ジジはキキのイマジナリーフレンド(想像の中の友達)という見方をする人は結構多かったです。私もジジをキキの分身=オルター・エゴとして解釈しているので、この見方に近いのかなとおもいます。また宮崎駿自身の「ジジの声はもともとキキ自身の声で、キキが成長したためジジの声が必要なくなった。変わったのはジジではなくキキ」と発言も有名ですね。それにしてもカワディMAXの作品に言及する人が多いのには驚きました。

  • 島田裕己の本で啓発されたなら、父殺しはどこに出てくる?(id:ueshin)

まず正確には島田裕巳さん、なのですが、『魔女の宅急便』には島田氏の考える「通過儀礼」にまつわるイベントやアイテムはほとんど登場しません。具体的には二つの世界を隔てる橋や扉、タバコを吸う大人などです。島田氏はこれが『魔女の宅急便』の中で通過儀礼があいまい化しているあかしだと考えているようです。したがって「父殺し」もない…のですが、ジジとの精神的な別離による「乳離れ」もしくは「自分殺し」は果たしているのかなと個人的には思っています。

  • 「制作スケジュールが、押しに押していて、ジジが喋るラストワンシーンを入れる余裕がなく喋らせられなかった」と鈴木敏夫氏が語っていた記憶がある。「シナリオ書かずにコンテを描くもんだから」と愚痴ってた。(id:otokinoki)
  • 量と質から観客に残るイメージより、制作者の声。スケジュールが押してジジが喋るワンシーンを入れられなかったので本題前提が崩れた。でもそんな裏話を漏らすほうがどうかしてるんだけど。(id:ene0kcal)

鈴木氏による「本当はジジしゃべる予定だった説」は私も知っています。ブコメで書いている人もいましたが鈴木敏夫氏は饒舌ぶりは本当に困りもので、彼の発言によって作品内容が深まるならまだしも、個人的にはあんまりしっくりこないことが多いんですよね。姑息で後出しじゃんけんっぽいときもあるし。先にあった宮崎自身の解釈との整合性も加味して、眉唾な話と思っている。仮に本当にそうだったとして、もし予定通りジジとの会話が復活していたとしたら、私はここまで『魔女の宅急便』を好きにはならなかっただろう。ここで言いたいのは、私は制作者の意図との「答え合わせ」にはあまり興味がないということです。

  • 魔女キキとナウシカは原作最後まで読むと映画がどうでも良くなる系。ところで「宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作」のソースは。どのランキングでも不動の首位ラピュタ、次点カリ城トトロ千尋あたりだぞ。俺は豚。(id:sqrt)

ソースとかないです。すみません。テレビ放映回数は「ラピュタ」「トトロ」「ナウシカ」「カリ城」についで5番目だったとおもいます。どのランキングでも5位以内にはだいたい入るんじゃないですか。5本指に入るのは屈指じゃないかと。まあでも「宮崎駿の監督作の中で屈指の人気作」って確かにあまりいい表現じゃないですよね。だいたい、どれも人気作なわけだし。原作は私も好きですが、映画は「どうでもよくな」りはしません。

パン屋の旦那が喋らない理由も分析してくれ。(id:gohankun

これはあくまで結果論、印象論でしかないですが、ほかの方がブコメで指摘していたようにトンボの「男性性」を際立たせるためだったのでは。これには上野千鶴子氏的な、第二次性徴の物語としての解釈が有効かもしれませんね。つまりトンボと出会うまで、キキはあくまで性的に安全圏にいる。だからパン屋の旦那は作劇上「去勢された」キャラクターにならざるをえなかったというわけです。あくまでうがった見方ですが。

てっきりジジが魔女の使い魔としての役割りを放棄して普通の猫としての生活を選択したために人語が喋れなくなったものだと解釈してた (id:dobonkai)

面白い解釈ですね。実は、原作ではジジと会話ができなくなる、空が飛べなくなるといった展開がまったくないのですが、魔女は生まれたときに同時期に生まれた黒猫と一緒に育てられ、互いにパートナーを見つけると同時に離れて暮らすようになるという慣習があると描かれています。ジジがパートナーを見つけ、別の道を歩んだからもうキキと話せなくなった、という解釈は十分成り立つような気がします。

*1:ジブリの教科書5「魔女の宅急便」所収

*2:ちなみに島田の論考はウルスラの存在をまったく無視しているという点でも不完全だ

さようなら2014年(映画編)

年末もぎりぎりまで仕事をしなくてはならず、結局ふりかえるひまもなかったです。ことしは映画を見た本数もぐっと減って40本くらい。見たい映画を遠くまで見に行く時間が取れなかったのがつらかった。というわけで、評判のいいイーストウッドやリンクレーターの新作見れていません。そういうわけで今回挙げた10本も例年ほどの鍛えられた感じがしなくて、あまり思い入れがないです。ふつうに好きな映画を上から並べていったらこうなりました、という感じで。それではさっそくことしの10本をば。

1.『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(ジェームズ・ガン

Guardians of the Galaxy/2014/US

4.『少女は自転車にのって』(ハイファ・アル=マンスール

وجدة(Wadjda)/2012/SA-DE

6.『アメイジングスパイダーマン2』(マーク・ウェブ)

The Amazing Spider-Man 2/2013/US

8.『ヌイグルマーZ』(井口昇

Nuigulmar Z/2014/JP

9.『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』(アラン・テイラー

Thor:The Dark World/2013/US

10.『アデル、ブルーは熱い色』(アブデラティフ・ケシシュ

La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2/2013/FR

 1.冒頭にはローテンションなことを書いたが、1位は自分の中では文句なしという感じ。2013、2014年はアメコミヒーロー映画の黄金期として今後も記憶されることになるとおもうが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はその象徴的な1本であり、マスターピースになりえた。まさかジェームズ・ガンがこんな王道のエンターテインメントをものにする日が来るとは。見終わった瞬間、もっというとタイトルクレジットが出た瞬間に「ああ、これはことしの1位だな」という確信のようなものがあった。そういう瞬間は結局2014年で1度きりだったし、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は1本の映画のなかで何度もそうしたカタルシスを味あわせてくれた。主人公が古ぼけたカセットウォークマンのスイッチを入れると、なにやらご機嫌なナンバーが流れ出す。ボーカルが歌いだした瞬間に、画面いっぱいに「銀河の守護者」というタイトルが映し出される。「銀河の守護者」!この大それた、偏差値の低そうなタイトルの下で、これまた偏差値の低そうな、孤独な主人公が踊っている。その滑稽さと愛おしさ。ところがおよそ2時間もすれば、私たちはこの主人公のことをすっかり好きになり、「銀河の守護者」だと信じるようになっている。敗者たちが身を寄せ合い、おずおずと巨大な敵に立ち向かっていく。歌とダンスが彼らの心を励まし、鼓舞し、やがて思いがけないチャンスをもたらす。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はアメリカ映画の長く豊かな歴史のなかで、繰り返し描かれてきた物語を、レトロフューチャーなメカのデザイン、脱臼したギャグを織り込んだ会話劇などいくつかの新しい要素を持ち寄り、組み合わせることで新しい傑作に昇華させた。これからもずっと愛していきたい作品です。
 2.某通販サイトでこの映画を貶したレビューの中に「インスタント・ビデオ代¥299を返せーーー!」というのがあった。ジョーダン・ベルフォートに「インスタント・ビデオ代299円にカリカリする。そんな人生終わりにしませんか?」と言われれば、ころっと騙されそうだな。誰もが倫理を踏み外し、欲望をダダ漏れにして生きてみたい。リミッターのはずれたクズどもの人生をスピーディーかつ情報過多に描きながら、スコセッシは地べたにはいつくばり、倫理観に縛られながら生きている良識人たちの人生を意地悪く切り取って見せる。ディカプリオ一世一代の名演もさることながら、純粋と狂気の紙一重を体現するジョナ・ヒル、ゴージャスだけどカネで買えそうなセレブ妻を演じるマーゴット・ロビー、そして先物取引の神髄をベルフォートに説く本物のギャンブラー、マシュー・マコノヒーも素晴らしい。
 3.『2001年宇宙の旅』にも『ライト・スタッフ』にも間に合わなかった私にこのなつかしくて新しいSF映画を見せてくれたクリストファー・ノーランに感謝したい。フィルム撮影とアナログ特撮に強い憧れとこだわりを持つノーランが、宇宙開発が用済みになりトウモロコシ農家に身をやつす元宇宙飛行士を主人公に選んだことは偶然ではあるまい。他人と時間がずれていく相対性理論の感傷的な側面を題材に選んだこともおそらく偶然じゃない。「時代錯誤」がかなしい病だと知っているから、ノーランはこの主人公とこの物語を選んだ。これまでのノーラン映画と同じく、統御されたハイセンスな画面なのに、どの映画よりぬくもりがあり、エモーショナルだ。もともと純粋なのに頭脳派を気取りがちなのが玉に瑕だったノーランが、ついにロゴスよりエロスに重きを置いたことが単純にうれしい。
 4.今年のベストスピーチは、ノーベル平和賞を受けたマララ・ユスフザイの国連演説だとおもうが、イスラム圏に対する無理解を少しでも促してくれた点で『少女は自転車にのって』は私にとって最も影響力のある映画だった。イスラム圏の文化、風俗が知れる「啓蒙映画」としてだけでなく、一人の少女の成長譚としても優れている。何気ないせりふやしぐさの中に、イスラム圏の風習が巧みに織り込まれていて、黒いベールにつつまれたイスラム圏の女性たちは、なるほどこんなふうに笑い、泣き、悩み、楽しんでいるのかと知れた。知らない世界を教えてくれる映画の魅惑を改めて教えてもらった。『少女は自転車にのって』に登場するのは私たちがイメージするテロリストとは関係のない「普通の人々」だ。しかし、イスラム法と国法が密接に結び付くサウジの「普通」は私たちから見るととても奇妙できびしい。世の中には、少女が自転車に乗ることが許されない国がある。そんな国で「女性映画監督」をやるというのはほとんど不可能に思えるし、並々ならぬ意志の力が必要に思える。しかし、アル=マンスールの演出、語り口はあくまでもユーモラスで軽やかだ。この1年見た映画の中でも最も地味で、最もうつくしいクライマックス。どんなにきびしく理不尽な環境でも、努力して何かを達成する喜び、楽しいことを謳歌する喜びは変わらず人の心をうち、その輝きは誰にも奪うことはできない。
 5.デヴィッド・フィンチャーの長編10作目は、誰の目にも明らかな堂々たる集大成的な最高傑作になった。フィンチャー的主題であった男性性やミソジニーとの対決に徹底的に向き合い、突き詰めすぎた結果、誰もが目をそむけたくなる意地悪な映画ができました。フィンチャーらしいケレン(実は真のフィンチャーらしさはそうした表層とは無縁だったりするが)はついに封印し、静謐で統制のとれた画面設計とサスペンスフルな編集、キャストから最良の演技を引き出す鬼演出―つまるところ一流の映画監督としてのスキルを結集した結果、フィンチャーの天才を証明する1本が完成した。『ベンジャミン・バトン』なんて媚びた映画撮らずに、我が道を信じていればよかったのだよ。
 6.つまるところスパイダーマンの魅力とは「ニューヨークで活躍するティーンエイジャーのスーパーヒーロー」である。叔父さんが死にましたとかクモにかまれましたとかは私にとってはどうでもいいので、なくても構わないんですよね。1作目で状況説明を終えて、マーク・ウェブはようやく本来の資質を発揮できた。冒頭、暴走トラックと対決するスパイダーマンの活躍だけで胸が躍り、スパイダーマンスパイダーマンたる魅力をみごとに活写している。この手のジャンル映画で「長い」という、決定的な欠陥を抱えながらもやはり愛してしまうのは、ジェイミー・フォックス演じるエレクトロとデイン・デハーン演じるゴブリン、ふたりのヴィランのドラマも大きい。社会から見捨てられ、置き去りにされた二人の暗く孤独な魂が邂逅し、ついに手をつかみ合ったときの高揚感は筆舌に尽くしがたい。
 7.キャリア最高作といって差し支えないであろうペイン監督の新作は、これまでのペイン作品と同じく今後の人生の中でもっともっと好きになり、味わいと輝きを増していくだろうなという確信がある。だから今のところはこの位置。まだ私個人にとって父親はこんなに弱いものではなく、一人の人間として相対化できるほど私も成熟していない。運転席を代わるのはまだまだ先のほうになりそう。
 8.中川翔子を主演に擁した変身ヒーローもの。乙女心と変態性が雑居する井口昇の作家性が結実した『片腕マシンガール』以来の傑作になった。この作品のBlu-rayのオーディオコメンタリーで中川翔子が「中学生の自分にこの作品のことを教えてあげたい」と語っていた。もうその感想がすべてだとおもう。中学時代に作ったという自前のヌンチャクでゾンビたちをなぎ倒す中川のりりしさ!
 9.『キャプテン・アメリカ』の2作目は掛け値なしの傑作映画だったとおもうが、個人的にはロマンティックコメディとしての要素も強い『ソー』の方を愛してしまうのだな。神話的な世界観とロマンティックコメディの接合が達成できたのは、クリス・ヘムズワースナタリー・ポートマンをはじめ才能あるキャスト陣のアンサンブルに依るところが大きい。すみずみにいたる脇役の輝きはロマコメの要でもある。今回はトリックスター的な役回りを見せる、もう1人の主役ロキ(トム・ヒドルストン)とのブロマンス的なやりとりもますます磨きがかかっておりました。
 10.最後は『アクト・オブ・キリング』、『紙の月』、『Seventh Code』、『アメリカン・ハッスル』と迷いつつ、痛いくらい切実な青春映画の新しいマスターピースを。あらためて驚かされる人間の顔というモチーフの映画的魅惑。随所に挿入される食事、ダンス、そしてセックス。たゆたう水や木の葉を散らす風の官能性。子供たちの目の輝き。人が生き、愛し合う温度を息苦しいくらいに生々しく切り取って見せた。文学や芸術をめぐる議論も心地よく、久しぶりにフランス映画らしいフランス映画の豊穣を感じることができました。
 以上になります。いつもなら15位まで紹介しているけど、ことしはなしで。ワーストは文句なしで『マレフィセント』です。
 旧作ベストは『牡丹燈籠』(山本薩夫/1968)。ことし初DVD化された大映怪奇映画3本の中のひとつ。どれも当時の大映撮影所の驚くべき技術達成度に陶然とするが、わけても本作は傑出していた。ギミックと運動で見せる中川信夫の幽霊表現とは対照的に山本はあくまでも正調ホラーとしてのムードとストーリーで引き込んでいく。恐怖演出におけるワイヤーと照明、効果的な編集も見事。「恐怖映画」としてはもしかしたら中川の映画よりよっぽど現代人に通用するかも。幽霊とわかっていながらお露との逢瀬に引きずられていく主人公の人物造形もいいし、お露を演じる赤座美代子のかれんさも不憫さも胸をうつ。お露の過去を見世物的に描写するシーンもなく、あくまで語りとして処理するのも上品。西村晃小川真由美志村喬など脇役も出色。お露の骸骨をかたわらに抱き、息絶えた新三郎…シェークスピア悲劇のように美しく切ない幕切れ。アントニオ・マルゲリーティの『幽霊屋敷の蛇淫』をほうふつとさせる。
 旧作からもう1本。『ジュデックス』(ジョルジュ・フランジュ/1963)は6月にクライテリオンからリリースされた。『吸血ギャング団』『ファントマ』で知られるルイ・フイヤード監督の連続活劇のリメーク版。サイレント活劇映画へのトリビュートであるため無字幕でも楽しめます。ヒロインは『顔のない眼』のエディット・スコブ。ジュデックスが仮面舞踏会で手品を披露しながら悪党を暗殺するシーンはあまりの鮮やかさにしびれた。
それでは今年も残すところあとわずかですが、みなさんよいお年を!!