『座頭市物語』(三隅研次)、『続・座頭市物語』(森一生)、『新・座頭市物語』(田中徳三)
"The Tale of Zatoichi"1962/JP
Criterion社が数年前にリリースした『座頭市』シリーズの25枚組Blu-rayボックスが、130ドルまで値下がりしていたので買ってしまった。映画シリーズは一通り見てはいるのだけれど、今回見返してみると見事に忘れているという…。人間の記憶力ってだめですよねえ。備忘録代わりに簡単に記しておこうと思う。
とはいえ記念すべき1作目はさすがに覚えていました。江戸時代に実際にあった抗争劇を下敷きにしています。天知茂演じる肺病みの剣客、平手造酒のニヒルな存在感と座頭市のどこか牧歌的なたたずまいの対比がいい。勝新太郎の座頭市は作品を重ねるごとにどんどん内面がそぎ落とされていくが、まだ人間くさい描写が残されている。ため池で釣りをするふたりがはぐくむ静かな友情。欲と俗にまみれたやくざ社会、奇妙な友情で結ばれた理解者どうしが、斬り合わなくてはならないクライマックスの悲哀と高揚。市に斬られ、恍惚とした表情でしなだれかかる平手の表情は、ほとんど女性である。
ヒロインおたねを演じる万里昌代も忘れがたい。新東宝出身のセクシーさを残しつつ、市に想いを寄せる可憐な女性像を演じている。直後には三隅の傑作『斬る』で全裸で斬り捨てられる鮮烈な役を演じるが、特撮ファンにとっては、『ウルトラマンタロウ』の異色のホラー回、第11話「血を吸う花は少女の精」で蔦怪獣バサラに殺される母親役を覚えている人も多いとおもう。
月夜に市と歩きながら会話する場面の匂い立つエロスはどうだろう。「このほくろ、子どもがたくさん生まれるって言われてるのよ」と市にささやくおたね。エロい。エロすぎる。枯れ木と月を配置したうつくしい構図が、画面全体の格調を保っている。
構図とカメラワークがビシビシと決まっている。撮影は三隅が好んで組んでいた名カメラマン、牧浦地志。
"The Tale of Zatoichi Continues"1962/JP
1作目のヒットを受け、わずか半年後に封切られた続編。今更書くようなこともないけれど、スタジオシステムの体力に驚嘆せずにはおれない。監督は勝のダークヒーロー路線の嚆矢となった『不知火検校』(1961)の森一生。
前作から1年後、平手の墓参りのため再び笹川を訪れた市に、さまざまな敵が襲い掛かるというストーリー。このうち黒田一家は、あんま療治のときに自分たちの殿様が正気でないのを市に知られてしまい、口封じに命を狙うというちょっと苦しい動機づけ。前作で市の加勢を受けた飯岡一派も今回は敵に回り、さらに市の実兄である隻腕の浪人、与四郎が絡む。シナリオ面ではさすがに急ごしらえの印象はいなめない。
見どころは市の兄、与四郎を、実際に勝の兄である若山富三郎が演じている点。若山は東映から大映に移籍したばかりで、城健三朗名義になっている。与四郎は、市が愛した女を横取りし、片腕を切り落とされたという因縁がある。市は場末の飲み屋で、かつて惚れた女とよく似たお節(水谷良重)と出会い、そこに与四郎も居合わせるというのは、ご都合主義もいいところなのだが、そこは因縁というもの。これでいいのである。二人はお節をめぐって再びさや当てをするが、お節は市を選ぶ。一夜を明かしたあと、お節が市に言う「自分の身体じゃないみたい」というせりふの生々しさ。船で逃げる市を見送る場面の豊かなメロドラマ性にもうたれる。
前作のヒロイン、おたね(万里昌代)も登場。大工との結婚が決まっているが、市の帰還を知り胸をときめかせる様子がかわいい。黒田一家との対決に向かう市の笠を「私が持っています」と握りしめるいじらしさ!その戦いの後、市が自分の結婚を知り、喜んでいるのを聞くと、そっと笠を置いて立ち去る。
1作目よりもさらに感傷的なつくりになっているのだが、それだけにエンディングの切れ味が際立っている。互いを認め合った平手と愛憎入り交じる与四郎を殺した市が、すべての元凶である飯岡助五郎の前に立ち、「てめえも死ね!」と叫んで叩き斬る。
"New Tale of Zatoichi"1963/JP
シリーズ初のカラーとなった3作目。大映ならではの黒味が際立った重厚なルックが存分に味わえる。タイトルに「新」と付くものの、前作で市に斬られた半兵衛の弟・島吉が市を付け狙うなど多少は「続編」の要素を残してもいる。監督には大映のプログラムピクチャーを数多く手がけた田中徳三が初登板。撮影は再び牧浦が手掛けている。
今回の敵役は、市に剣術を教えた師匠の伴野弥十郎。『次郎長三国志』シリーズの大政役などでおなじみの河津清三郎が演じているが、どちらも居合斬りを得意とするので決闘シーン自体は短く、地味である。一瞬刃を交えたあと、市に向かって「抜け!」と叫んで倒れる。なんと自分が斬られたことにも気づかずに死んでいくのだ。
本作はアクションより、弥十郎の妹、弥生(坪内ミキ子)と市の悲恋に比重が置かれている。弥生は演じる坪内そのものの育ちの良さもあいまって、おたねやお節とは一線を画す処女性をまとっている。そのため、おたねに言い寄られてもかわしていたのに、弥生の求愛には応える市が、ちょっとだけスケベなやつに見えなくもない。もともと弥生には足が不自由という構想もあったようだが。
弥生と身を固めるため、島吉の前に膝をついて、見逃してほしいと懇願する市。隣で「私も斬られます」と身を投げうつ弥生。さいころで決めようと提案し、結局は賽の目をごまかしてまで市を見逃すことにする島吉。三者三様の思いが交錯する人情劇が味わい深い。
『回路』(黒沢清)
"Pulse"2001/JP
国内盤が出る気配がないので、英アロービデオから2年前にリリースされたBlu-rayを取り寄せた。くすんだ画面の雰囲気は残しつつ、不吉な暗闇や心細いロングショットなどがつぶれることなく再現されていて、脂の乗り切った恐怖演出と画面構成をすみずみまで堪能できます。最高じゃあ。
私は一連の「Jホラー」作品群のなかでも『回路』の特に前半部がいちばん怖いと思っていまして。怖すぎるからめったに見返すこともできないのだけど、久しぶりに見たらやはり怖かった。登場人物に「幽霊」が迫ってくる瞬間というのが何回かある。『リング』のクライマックスの発展形といえるのかもしれないけれど、本家が貞子のアイドル化によって当初のインパクトを低減してしまったのに対し(それでも怖いけど)、こちらはいまだに衝撃的だ。恐怖で直視できない、それでいて目を離すことができない。そんな鮮烈な呪縛力。
インターネットが「異界」に通じてしまったら―という発想じたいは、ネット社会に漠然とした不安を抱けた時代にしか通じないハッタリだったとおもうのだけど、今の感覚でみると、かえって怖いんですよね。電話回線特有の通信音や解像度の粗い画面、通信速度が遅いからこそのカクカクとした動き…インターネットにまだかろうじて残っていた「アナログ」の残滓が本作の恐怖を支えているように思います。
それでも黒沢の恐怖演出の根本が、私たちの日常と地続きのなにげない空間やアイテムを異化してみせる手つきであることは、今も昔も変わらないなあ…と。コップに注がれたサイダーが、ゲームセンターの電子音楽が、パソコンの周りで絡み合ったコードが、どうしてこんなにもまがまがしさをまとっているのか。
ポルノカルチャーと私
ジェームズ・ガン監督の「解雇」騒動を受けて、「残念だな」という以上に、なんだか他人事ではないなあと思って、過去にアップした記事を数本削除しました。2011~14年の年末に書いていた「アダルトビデオの年間ベスト」という下世話な記事です。
自分がどうやら普通の成人男性よりもアダルトビデオを見ているらしいと気づき、せっかくだから自分なりのレビューを記事にしてみようと軽い気持ちで書いたのがきっかけだったのですが、なぜかブックマークが異常に伸びて、一時期はこのブログでもっとも閲覧されているエントリーとなっていました。私は元来、調子に乗りやすいタイプなので、予想外の反響に気をよくして、4年連続で同様の記事をアップしました。
途中でやめてしまったのにはいくつか理由があります。私がアダルトビデオをあまり見なくなったから…といいたいところなのですが、実はそういうわけでもなく、いまもDMM.R18のヘビーユーザーです。
主な理由の一つ目は、「AVの出演強要」が社会問題化したことです。自分なりにアダルトビデオの現場で働く女優さん、男優さんに敬意を払い、彼女ら、彼らのプロフェッショナルな仕事を評価しようとつとめてきたつもりだったのですが、どうやら私が考えているよりも、業界では不正があるらしい。好きだった女優さんの作品が一挙にDMMから削除されたのにも驚きました。堂々と仕事をしているように見えた女優さんでも、フェアでない契約や過酷な労働環境に傷ついていたのかもしれない。ポルノを「フィクション」として楽しむ前提が崩れてしまったように感じました。
もう一つは、「ベスト作品」として性暴力をあつかった作品を多く取り上げていた点です。ここ数年、私自身、ポルノと性暴力や性差別について考えるようになりました。もっと広い意味での差別、といったほうがいいかもしれません。女性だけでなく、同性愛者や障がい者、外国人などさまざまなマイノリティとのかかわりについて以前より深く考えるようになったのです。現実、あるいはネット上でさまざまな人たちの意見や考え方に触れ、私も少しずつ大人になりました。「自分は自分の思っている以上に差別的な人間だ」と考えるようになった。もっと言いますと、一人一人のこうした自覚と内省によってしか、差別をなくすことはできないと気が付いたのです。
性暴力をポルノとして消費する心の根っこには、女性差別、女性蔑視的なメンタリティがあるとおもいます。「いやいやそんなことはない、フィクションと現実は別物だ。だって現実の僕は女性差別をしていないじゃないか」。そんなふうに考えていた時期もありました。暴力的なポルノに影響されて、自分の恋人に同じようなことをしてみたいと思ったことはないからです。それでも、性暴力をポルノとして消費する私のなかには「女性をモノのようにあつかいたい」という暗く、卑しい欲求があることは否定しようのない事実でした。こうした欲求が、私を性暴力に走らせたことはないし、これからもないとは思います。ですが、その欲求は、たとえば恋人との口げんかとか異性の同僚とのジョークとか、ささいな日常のなかにきっと歪みを生み出す。私は、私の後ろ暗い欲望をもっと自覚し、つねに批判的に正そうとする努力すべきだと思っています。
おそらく近未来のうちにアダルトビデオの市場は縮小、変革すると思います。いわゆる「本番行為」はなくなるのではないでしょうか。「男性の性欲を満たす映像コンテンツで、女性は実際にカメラの前でセックスしなくてはならなかった」という事実が、「前時代」の象徴として語られる日がくるかもしれません。
私はいまも、日本のポルノカルチャーを愛しています。それでも文化や表現はつねに「よいもの」へと進化していくべきだと考えています。映画の歴史だって、白人至上主義にまみれた『国民の創生』で始まり、そしていまも不合理と不平等とたたかい、進化し続けています。ポルノにだってやれる。じっさいに変化はおきています。暴力的な作品は少しずつ減少していますし、児童ポルノをほうふつとさせるジャンルも自粛傾向にあります。女性向けのアダルトコンテンツも増えました。
私の願いは、これまで、そして今も、ポルノを歴史をつくっているすべての女性と男性の尊厳が、彼女・彼らが望むかたちで保たれることです。そして安易な過激化とは違う形で、ポルノカルチャーが多様化していくことを望んでいます。
素晴らしきロックバンド、WINOについて
- アーティスト: WINO,吉村潤,久永直行,外川慎一郎,黒沼征孝
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 2003/03/19
- メディア: CD
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このブログも開設してから10年以上がたちますが、読者の方にお会いすると「『デビル』好きなんですか」と聞かれることが、まれにある。ハリソン・フォードとブラッド・ピット共演のサスペンス映画『デビル』の原題が"The Devil's Own"なのだ。確かに『デビル』は好きな映画なのだけど、このブログのタイトル自体は、1995~2002年に活動した日本の5人組ロックバンド、Wino(ワイノー)の楽曲「Devil's Own」が元ネタです。「すごくつらい」といった意味のイディオムらしいのですが、ブログを始めた当初は単純に語感のよさと曲のかっこよさだけで直感的に選んだのだとおもう。
なにしろ当時の私はワイノを聞きまくっていた。まるで記憶装置のように、聞いていたころの気分がありありと思い出させてくれる音楽が、誰にでもあるとおもうけれど、私の場合、ワイノーを聞くと、合宿免許で行った山形の抜けるような青空とか、恋人に会うために乗っていた小田急線の車窓とか、せまくて暗いサークル室のにおいとか、そんなものが胸に湧き上がってくる 。今でも私の心の中で特別な位置を占めているバンドだ。
ワイノーがメジャーデビューしたのは1998年。くるり、スーパーカー、ナンバーガール、プリ・スクールなど、洋楽文化を日本ならではの感性で咀嚼し、オリジナルな音楽へと昇華する新たな才能が、つぎつぎと登場した黄金時代だ。雑誌「スヌーザー」の熱心な読者なら「98年の世代」という言葉を聞いた人も多いとおもう。なかでもワイノーはシャーラタンズ、オアシス、ジョイ・ディヴィジョンといった、いわゆるマンチェスター勢の英国バンドをほうふつとさせるグルーヴとメロディが特徴のバンドだった。彼らは、同世代のバンドより、「UK色」が強かったとおもうし、逆にいうとその呪縛に最後まで悩み続けたバンドだったとも言える。ただ、フロントマンの吉村潤によるみずみずしいメロディとしなやかな歌声、外の風が冷たくて、すべてが期待外れなときにも寄り添い、勇気づけてくれるリリックは、唯一無二であり、彼らに影響を与えた偉大なUKバンドたちに勝るとも劣らない。だから、私は敬意と愛着を込めて彼らを「日本のUKバンド」と呼びたい。
…と、いろいろと偉そうなことを書いてきたけど、実は私もリアルタイムでワイノーの音楽と出合うことはできなかった。私が初めて手に取ったワイノーのディスクは解散後にリリースされたベストアルバム「THE BEST OF WINO Volume 1」だ。このベスト盤は先述した雑誌「スヌーザー」の編集長だった田中宗一郎氏が選曲、編纂を手掛け、非常な熱量のライナーノーツも寄せている。親しい友の死を悼む弔辞のような(そういえばこのベスト盤は友人との死別をモチーフにした「Friend Of Mine」で締めくくられている)ライナーノーツで記しているとおり、ワイノーはいくつもの珠玉の楽曲を持ちながら、決定的な傑作アルバムを残すことができなかった。1枚だけを選ぶなら、やはりこのベストアルバムになってしまうとおもう。厳選された16曲の完成度は言うまでもないが、構成も非常によく練られている。リアルタイムで間に合わなかった私にとって、このベストアルバムで彼らの音楽と出会えたことは、幸福だった。その後数年かけて、地道に中古ショップをめぐり、廃盤となったカタログのすべてを手に入れたことも、私にとっては大切な道のりだった。
同世代のほかのバンドと比べても、その才能と実力に対するワイノーの評価はあまりに過小であり、まさに「Devil's Own」といっていい。当時は気まぐれでつけたブログタイトルだったが、今となっては彼らの素晴らしい音楽を忘れ去ってはならない、という奇妙な使命感さえ覚える。ろくに更新もしていない弱小ブロガーの、滑稽すぎるおせっかいではあるが。
最後に、私がふだん聞いているプレイリスト「MY BEST OF WINO」(約80分)を置いていきたい。あと1曲削れば、CDに焼けるのだけど、どうしてもできない。これでもなくなく削ったのである。ウェブの片隅にあるこの文章が、あなたの目にとまり、その耳に彼らのメロディが届くことを願って。
- The Action (All I Really Want To Do)
- Tomorrow
- Velvet
- Everlast
- Thank You
- New Song
- Ain't Gonna Lose
- Wild Flower
- Watermark
- My Life
- Sullen Days
- Loaded
- White Room
- Anyhow
- 太陽は夜も輝く
- Going Out
- Freedom Song
- Devil's Own (Mix No.4)
『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(本多猪四郎)
"The War of the Gargantuas"1966/JP-US
先日、『フランケンシュタイン対地底怪獣』の感想をアップしましたが、その後に洋泉社から「東宝版フランケンシュタインの怪獣完全資料集成」という書籍が刊行されましたね。『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965)と『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966)の2部作の資料をまとめた本なのですが、これがねー、すでにAmazonにレビューが並んでいますが、ファンとしては非常に物足りない内容だったんですよ。フランケンシュタインやバラゴン、サンダ、ガイラの雄姿を大判のスチールで拝めるのはいいのですが、「完全資料集成」をうたうからにはスタッフ、キャストのインタビューやコンテ画、宣材などももれなく網羅してほしいじゃないですか。2016年刊行の「特撮秘宝 Vol.3」で出し尽くしたということなのかもしれませんが、それならあの特集をそのまま再録してくれたってよかった。昨年、同じく洋泉社から刊行された「市川崑『悪魔の手毬唄』完全資料集成」が決定版といえる出来ばえだっただけに、不満が残りました。
のっけから文句ばかり言い募ってしまいましたが、先日につづき、東宝特撮映画の大傑作『サンダ対ガイラ』を取り上げようとおもいます。クエンティン・タランティーノやブラッド・ピットら多くの映画人がファンを公言し、最近では諫山創の漫画「進撃の巨人」に影響を与えた映画としても有名です。日本のみならず、世界のポップカルチャー史においても特別な地位を占めている作品といっていい。『フランケンシュタイン対地底怪獣』の厳密な続編ではないが、基本的な世界観を引き継ぎつつ、メッセージ性よりもエンターテインメント性に舵を切った「続編映画の王道」といえる作品になっている。東宝怪獣随一の凶暴性を誇るガイラ、サンダとガイラが繰り広げるスピーディーかつダイナミックなバトルシーン、メーサー殺獣光線車が初登場する「L作戦」の血湧き肉躍る展開など見どころが満載で、私も年に少なくとも1回はかならず見返すお気に入りの映画です。以下、便宜上『フランケンシュタイン対地底怪獣』を「前作」と表記します。
なにしろこの映画がすばらしいのは、開巻から景気よく怪獣が登場するところだ。ていねいな語り口で徐々にドラマを盛り上げる前作と好対照をなしている。洋上で漁船が大ダコに襲われ、すぐさまガイラが登場。危機を脱したかと思われたのも束の間、今度は大ダコを追い払ったガイラが漁船にのしかかる。前作で人間のために怪獣と戦ったフランケンシュタインが、この瞬間に敵対する存在へと反転するわけだ。前作のテレビ放映版でラストに大ダコとの格闘シーンが追加されていることを踏まえれば、その反転はより鮮明といえよう。
場面が病室に切り替わり、生き残った乗組員の回想という形で「その後」が語られる構成もうまい。必死で泳ぐ乗組員たちにガイラが迫り、次々と殺されていく。子どものころ本作をVHSで見たとき、人間を視認し、執拗に追いかけるガイラの描写に戦慄したことを覚えている。「進撃の巨人」にもはっきりと影響を及ぼしている要素といえるのではないか。小型漁船が前に進まずに不審に思った漁民が海を見下ろすと、水の中からガイラがこちら側を見つめている―というショットはガイラの「視線」の恐怖を、強烈に印象づけた。スーツアクター(ガイラ役は中島春雄)の眼光や視線の動きが見えるマスクも効果を上げている。続いて砂浜で網を引っ張る漁民たちの前に、ガイラが出現する場面の異物感にもドキリとする。
前作は本編と特撮シーンのシームレスな受け渡しが魅力だったが、本作では一見乱暴な合成や編集を多く取り入れ、人間の日常を侵す怪物の野蛮な暴力性を際立たせている。ガイラの空港襲撃シーンは、「特撮」と「本編」の境界が破壊され、壮絶なカタストロフがあふれだす名場面だ。前作でフランケンシュタインと戸上季子(水野久美)が演じた繊細な別れの場面と対になっているといっていい。
ガイラが水平線からぬっと姿を現す緊迫感、悲鳴を上げて逃げ惑う人々の後ろにガイラが迫る合成シーンの豪快さ、空港の精緻なミニチュアワーク、捕まえた人間を片手でむさぼり、まるでガムか何かのように衣服を吐き捨てる酷薄な食人描写、そして日光を恐れたガイラがコンテナを蹴散らし、海へと逃げ帰る際の「走るのか!」という驚きと衝撃―。すべてがパーフェクトで、見るたびにぞくぞくする。学生時代、一度だけこの映画をスクリーンで見たことがあるのですが、ビデオやDVDでくり返し見た私でも、このシークエンスには度肝を抜かれた。やはり怪獣映画は大スクリーンで見るとまったく違うんだな、と。ちなみにシナリオ決定稿では、ガイラが衣服を吐き出した後に「地面にベッタリ落ちる女事務服」というシーンの記述がある。本編に入っていれば、さらに伝説的なシーンになったとおもうのだけど…。
自衛隊とガイラの攻防戦が描かれる「L作戦」のシークエンスは第2のヤマ場だ。前作ではずいぶんと間抜けな描かれ方をしていた東宝自衛隊が名誉挽回とばかりに活躍する。「爾後の命令は移動司令部より発令する」というせりふを皮切りに、歯切れのいい命令、報告と整然とした団体行動によるガイラ殲滅作戦が展開していく。軍隊経験者でもあった本多ならではのリアリズムと、メーサー殺獣光線車をはじめとする東宝自衛隊のけれん味が結実したこの場面を、評論家の切通利作は「ドキュメンタリー・タッチの<東宝自衛隊>の、一つの達成」と評している。山林を逃げ回るガイラを、レーザー光線が追いかけ、周囲の樹木を次々と切断していく気持ちよさ。伊福部昭の勇壮なスコア。サンダの出現で作戦が中断されるまで、ほとんど勝利寸前にまでガイラを追い詰めた胸躍るシーケンスだ。
ここまで全く説明していなかったけれど一応、この映画には主人公がいて、アメリカ人男性、日本人男性、日本人女性の研究者トリオという設定は前作を踏襲している。ただキャラクターは、一新されていて、キャストはニック・アダムスがラス・タンブリンに、高島忠夫が佐原健二に変わり、水野久美はアケミという別人格になっている。劇中では、アケミがかつてフランケンシュタインを育てたことがあり、「私のアパートまで別れを告げに来た」など前作の物語をほうふつとさせるせりふもあるが、回想シーンも新たに撮影され、幼少期のフランケンシュタインも前作と異なる外見をしている。前作でみられた三者三様の思想信条や葛藤といったキャラクターの掘り下げは、本作ではあまり見られない。むしろサンダの登場以降、映画は細胞を分かつ双子のフランケンシュタインのドラマへとフォーカスしていく。
サンダに救出され、湖のそばにかくまってもらったガイラだったが、育ちが悪いのでサンダの目を盗んでハイキングに来た若者を食べてしまう。全員で「ふるさと」を歌いながらハイキングをする若者グループの描写には面食らうが、空港襲撃シーンでの直接的な食人描写からは一転、空になったボートという間接表現にとどめているのもメリハリがきいている。ガイラの人食をとがめ、樹木をつかんで威嚇するサンダに対し、意に介する様子もなく寝そべっているガイラのなめ腐った態度もいい。そんなわけで、2匹のフランケンシュタインは早々に決裂。ガイラが湖から走って逃げ去るすがたにそこはかとない悲哀を感じるのは私だけだろうか。
そして物語は、第3のヤマ場であるサンダとガイラの対決へとなだれ込んでいく。タランティーノが『キル・ビル Vol.2』で再現したことで知られる二匹のバトルシーンは、人型怪獣同士ならではの切れ味のあるアクションに加え、銀座のビル街から波止場、海へと移動していくスケールの大きさも魅力だ。建物を乱暴になぎ倒したり、タンカーをつかんで投げつけたりと、なりふり構わぬ死闘に、メーサー殺獣光線車が絡み、スリルと興奮に満ちている。
この映画はガイラの極悪非道ぶりが注目されがちだけど、ガイラを説得しようとするサンダのやるせない表情もいい。ガイラさえ現れなければ、おとなしくしてくれていれば、サンダはこれからも静かに山の中で暮らしていたかもしれないのに…。足の負傷をかばいながら、義理もない人間を守るためにガイラと対峙するサンダ。そのすがたは英雄と呼ぶには、醜い。でも、だからこそ彼の悲壮な義俠心には、ほんものの英雄を感じずにはいられない。前作で人間(本編)側と怪獣(特撮)側のドラマの融合がひとつの完成形にまで達したが、本作では着ぐるみ怪獣たちの仮面劇が、俳優たちのドラマをしのぐまで発展している。戦争や天災を背負った「脅威」のメタファーとして生まれた怪獣たちは、フランケンシュタイン2部作で独自の人格と社会性を獲得したのだとおもう。
子どもたちのさけび―『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(本多猪四郎)
"Frankenstein Conquers the World"/1965/JP-US
あらためて明けましておめでとうございます。去年は本当に忙しくて、ブログの更新が4回しかできませんでした。ことしはもう少し書けるといいな。
それで今年の1本目に選んだのは本多猪四郎監督、円谷英二特技監督による東宝特撮怪獣映画の異色作『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』です。言わずと知れた名作ですが、昨年晴れてBlu-ray化されました。姉妹編であり、こちらも名作と名高い『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966)と比べるとずいぶんと遅いリリースでした。喜び勇んで購入したわけですが、わざわざBlu-ray化したと思えないノイズの多い画質にとてもがっかりした。東宝にはもっと過去の名作とそれを今も愛する人々に敬意と誇りをもって商品を作ってほしいですね。
ソフトは残念ですが、映画は一級品です。東宝怪獣映画で米国と初めて合作の形をとった本作は元々、20世紀フォックスが東宝に持ち込んだ「キングコング対フランケンシュタイン」という企画が基になっている。「アメリカの二大怪物のドリームマッチを、『ゴジラ』で有名なニッポンの映画会社につくらせよう」という発想じたいが、映画『キングコング』の興業屋のそれで笑えるが、とにもかくにも、この企画からまず『キングコング対ゴジラ』(1962)が産み落とされた。残ったフランケンシュタインの相手としてはじめはガス人間が選ばれ、『ガス人間第一号』(1960)の続編映画の企画が持ち上がった。その後、「やはりゴジラだ」となったのかは知らないが、ゴジラ映画の新作「ゴジラ対フランケンシュタイン」という企画をへて、最終的に新怪獣バラゴンが登場する企画に落ち着いたということです。
物語は第二次世界大戦末期のドイツから始まる。毒々しい色の液体が入った試験管やフラスコが並ぶ、いかにも東宝チックな研究室にナチスの将校たちがずかずかと上がりこみ、なにやら大きなトランクを没収していく。ナチスはこのトランクをUボートで運び、日本軍の潜水艦にトランクを引き渡した直後、連合軍に撃沈される。中身を知らされないままトランクを広島の病院に運んだ海軍大尉・河井(土屋嘉男)は、軍医(志村喬)からトランクの中身がフランケンシュタイン(人造人間)の心臓であり、「弾に当たっても死なない兵士」を開発するための日本軍の切り札だと聞かされる。しかし、その研究はアメリカによる広島への原爆投下によって中絶してしまうのだった…。
怪奇ムード満点のスタッフクレジットに、ドイツ語が飛び交う緊迫の心臓移送シーン、連合軍の空爆や原爆投下の特撮など冒頭からスペクタクルにあふれ、土屋、志村ら東宝映画おなじみの名優たちがかもし出すアダルトな雰囲気もたまらない。撮影前に本家『フランケンシュタイン』(ジェームズ・ホエール監督、1931年)を見返し、「厳粛な気持ちで演出した」と振り返る本多監督の気概が伝わってくるようだ。原爆投下前の広島市街地の遠景はマットペインティングと実景の合成だろうか。破壊される前の原爆ドームが描かれてる。『ゴジラ』をはじめ昭和の特撮作品では原水爆が重要なファクターとなっていることが多いが、直接的に原爆投下が描かれた作品は実はめずらしいのではないだろうか。
時は流れ、戦後15年の1960年。本作の主人公であるボーエン(ニック・アダムス)、季子(水野久美)、川地(高島忠夫)の3人は原爆症患者の治療に当たりながら、放射性物質の研究をしている。両親を原爆で失い、自らも重い原爆症を患う少女、田鶴子(沢井桂子)は登場は短いが、本作のテーマの根幹に関わる重要なキャラクターだ。「あの子の人生って何と言ったらいいんでしょう」ととあわれむ季子、「死にましたか」とかなり淡々と確認する川地、「われわれの科学ではまだ田鶴子さんを助けることはできない。われわれは、悲劇から何としても平和と幸福を引き出さなくてはならない」と奮起するボーエン。田鶴子に対する3人の態度に、すでに研究者としてのスタンスの違いが鮮明に描かれている。
季子は自宅の近くで、犬を殺して食べる「浮浪児」を中年男性が追い掛けているところに遭遇する。ちまたではウサギのバラバラ死体が小学校で見つかる怪事件も起きていた。季子の口から当たり前のように出てくる「浮浪児」という言葉に面食らうが、中年男性の言う通り、身寄りもなく、住む場所もない戦争孤児は、終戦直後の日本にはあふれていたに違いない。原爆で大量の人々が殺りくされたまちであればなおさらのことだ。
本作におけるフランケンシュタインは、まさにそうした子どもたちのメタファーではなかったか。戦争と原爆で、親を殺され、自らも傷つき、貧困と差別にまみれた幾人もの子どもたち。その証拠に季子とボーエンは、田鶴子の命日に墓参りに出かけた先で、引き合わせたようにフランケンシュタインの少年と遭遇し、連れ帰ることになるのだ。
2人が保護した少年は白人種で、生まれてすぐ被爆したのに、原爆症にならず、むしろ強靭な肉体をそなえていた。取材している記者の「パンパンが生ませた混血児ではないか」というせりふや「放射能に強い怪童」のという新聞見出しも、時代とはいえ、すごい神経である。まだスペル星人が封印される前である。記事を読んだ元海軍大尉の河井から「フランケンシュタインの心臓」の情報がもたらされ、この少年が人造人間である可能性が浮上する。だが、それを確かめるには手足を切断するしか方法がないという。
ボーエン、季子、川地の違いについて書いたが、この作品がすぐれているのは、3人のキャラクターづけが、単純化された書き割りに陥っていない点だ。季子は少年を「坊や」といってかわいがるが、最後まで彼に名前をつけることはない。豪雨の中、タクシーに轢かれたフランケンシュタインに彼女が初めて食事を与えるシーンを思い出そう。窓からパンを投げ与える水野久美の表情と所作は、慈愛に満ちていて、とてもうつくしい。その一方で、温かい食事が並ぶ季子の部屋と冷たい雨が降りしきる路上の間には踏み越えられない断絶がある。季子はフランケンシュタインを「自分たちと同じ人間」と主張し、おそらく彼女の母性愛には嘘はないはずが、どこか捨てられた子犬に接するような偽善性も透ける。
フランケンシュタインを研究対象として見ている川地はどうか。「彼は普通の人間ではない」と言って手足を切断することに賛同したり、手首が手に入るとフランケンシュタインを殺すことを「やむを得ない」と言い出したり、その言動は冷淡にも思えるが、一人でフランケンシュタインの手足を切断しようとする前に、ためらって酒をあおり始めるなど、人間くさい一面も見せる。
両極端である二人の間に位置するボーエンもまた複雑な背景を持っている。ボーエンは季子に、自分がかつて原爆の製造に携わり、「人類を滅ぼすのではなく、再生させることに生涯をささげたい」と日本にやってきたと明かす。一方で研究に行き詰まり、もう一度アメリカに帰って一からやり直そうか迷っているとも…。アメリカ市場への配慮もあってか、周到に言葉を選んでいるが、ボーエンが自身の過去に激しい贖罪意識を抱えているとみて間違いないだろう。アメリカが科学の粋を集めて発明した兵器は、投下から15年たった今も人々を苦しめ、科学はその苦しみを癒すことができない。放射能を克服したフランケンシュタインの存在は、ボーエンにとって希望である一方で、原爆に傷ついた子供たちの怨念を背負った呪いでもある。
テレビクルーの撮影用ライトにおびえて暴れだし、病院から逃亡したフランケンシュタイン。季子のアパートを訪れるシーンでは、行き場のない怪物の孤独と哀しみ、怪物への愛着と恐怖の間で揺れ動く季子の心情がみごとに表現されている。巨大になった体を持て余し、すがるような表情で季子を見つめるフランケンシュタインだが、季子が一瞬だけひるみ、後ずさりするのを見て、自分への恐れを感じ取り、アパートを立ち去る。本作では、特撮シーンと本編が高度な受け渡しがいくつも見られるが、正攻法のカットバックにより描かれた怪物と美女の切ない別れの場面は、本多と円谷によるあうんの呼吸と、古畑弘二と水野の名演により、その頂点を極めた場面といえるだろう。
逃亡中もフランケンシュタインはぐんぐんと成長していくが、同時に地底から現れた怪獣バラゴンも暗躍する。実はバラゴンは作品の本筋にはほとんど関係がない敵役のための敵役、といったキャラクターだ。バラゴンさえいなければ、フランケンシュタインには別の未来が待っていたのかもしれない。とはいえ、バラゴンの登場シーンもまた東宝特撮ここにありとでもいうべき、ディテールと工夫にあふれている。山小屋を襲うシーンの見事な合成、養鶏場のニワトリが映し、直後にバラゴンの口から羽毛があふれる鮮やかなカット割り。モンスター映画としての「怖さ」を感じさせてくれる。狛犬をヒントにしたとされるバラゴンのデザインもシンプルながら愛嬌と造形美にあふれた傑作といっていいだろう。蛇腹状の背中が特徴的な着ぐるみはその後、『ウルトラQ』のパゴス、『ウルトラマン』のネロンガ、マグラー、ガボラと再利用されたこともあり、地底怪獣の一つの定番フォルムとなった。クローズアップ用マスクでの目がぎょろぎょろと動くギミックもよくできている。余談ですが、私の実家はパグを飼っていて、つぶらな瞳とひしゃげた顔がよく似ているので、愛着を感じてしまいますね。
バラゴンとフランケンシュタインは日本アルプスでついに激突する。ワイヤーワークや光線技を導入した緩急自在なアクションも見どころだが、最大の魅力は、着ぐるみ怪獣と生身の(しかもほとんど半裸の)俳優がぶつかることで生まれる緊迫感だろう。バラゴン役の中島春雄は、すでに名人芸ともいえる円熟した怪獣演技を見せるが、新人の古畑も豊かな表情と身体性で画面を走り回る。フランケンシュタインが季子たちを救う展開や、巨人を人間の視点から見上げるカットには、1年後に放映される『ウルトラマン』の萌芽を見出せる。
死闘の末に辛くもバラゴンに勝利したフランケンシュタインだったが、直後に地割れに巻き込まれ、雄たけびを上げながらのみこまれていく。最後に何を伝えたかったのだろうか。考えるといつも苦しくなる。多くの人々にさげすまれ、恐れられ、行き場をなくしながらも、わずかな仲間たちのために戦い、ついには名前すら呼ばれることもなかった英雄の悲しい最期である。「死んだほうがいいのかもしれない所詮彼は怪物だ」というボーエン博士の言葉が重く響く。
フランケンシュタインは架空の怪物だ。だが、彼と同じような子供たちはおそらくたくさんいたはずなのだ。戦争と原爆にすべてを焼きつくされた世界で、棄民のように扱われ、 自分が何者かもわからないまま、歴史からも、人々の記憶からも消え去っていった子どもたちが、確かに、いた。救いようのない彼らの悲しみと怒りを少しでもつかみたくて、みじめな怪物の断末魔のさけびに、耳をすます。
『牯嶺街少年殺人事件』(エドワード・ヤン)
A Brighter Summer Day/1991/TW
かれこれ10年以上恋い焦がれていた『牯嶺街少年殺人事件』を先日、スクリーンで見ることができた。私がこの映画の存在を知ったのは、エドワード・ヤンが亡くなった時期とあまり変わらない。権利関係で再上映やDVD化がかなわず、そのときはすでに「伝説の傑作」になっていた。渋谷のTSUTAYAに上下巻VHSが1組だけ置かれていたが、いつ行ってもレンタル中でついに見ることはできなかった。昨年、マーティン・スコセッシの監修のもと、4Kレストアリマスター処理がされ、米国クライテリオン社からBlu-rayがリリースされた。もちろんすぐに購入したけど、長年あこがれていた映画が小さな円盤に収まり、手元にあるという現実がいまいちぴんとこない。どうせならスクリーンで、日本語字幕付きで見たいと考え、開封すらしなかった。待っていてよかった、と素直におもう。というか英字幕で見ても理解できなかったけど。
1960年代初頭の台湾・台北。戦後に中国本土から台湾へと渡った「外省人」が暮らす小さな村が舞台だ。かつて日本統治下にあった戦時の残照と冷戦を背景とした熾烈な共産党狩りが暗い影を落としている。大人たちの間に蔓延した不安と閉塞感を振り切るように、少年たちは徒党を組み、グループ抗争に明け暮れていた。受験に失敗し、夜間中学に入学した小四(シャオスー)は「小公園」という不良グループに属し、親友の王茂(ワンマオ)と映画撮影所に忍び込んだり、グループ同士のけんかに巻き込まれたりしながら過ごしている。小四はコケティッシュな魅力をまとった少女、小明(シャオミン)と知り合い、親しくなるが、小明は「小公園」のリーダーであるハニーのガールフレンドだった。ハニーは小明を巡って対立する不良グループ「217」のリーダーを殺し、姿を消したという。
「小公園」の次期リーダーを狙う滑頭(ホアトウ)がレンガで少年をぶん殴る乾いた音。暗闇の中に不意に明かりがともり、一気呵成に繰り広げられる襲撃シーン。少年達の暴力抗争は想像以上に鮮烈で、北野映画も顔負けの激しさだ。だが興味深いことに、血で血を洗う抗争劇も、少年少女の初々しいロマンスや友情と同じくらいみずみずしい輝きを放っている。彼らの闘いは敵味方がはっきりしていて、動機もシンプルだから、どんなに凶暴だとしてもどこか純粋で、つたない。多くの暴力シーンで少年達が息を切らして走り、スクリーンを躍動させる。一方で、大人たちの世界では、これとは比べものにならないほど陰湿でおぞましい暴力が潜んでいる。こうした暴力は、屋根裏に隠された日本刀や、小四の父が取調室で目にする巨大な氷の塊によって不意に顕在化し、見る者を戦慄させる。ピュアな日常の中に忍び込んだ台湾社会の「闇」が少しずつ積み重なり、ありきたりなボーイミーツガールが悲劇的な結末へと収れんしていく。
比喩でもなんでもなく、この映画では「闇」が誰よりも重要な役者だ。不気味な笑い声と共にバスケットボールを投げ返す闇、襲撃を察知した「217」のリーダーがろうそくを吹き消したときに立ちのぼる張り詰めるような闇、小四にとって唯一のパーソナルな空間といえる押し入れの中の闇。暗闇の表現に定評があったヤン監督だが、映画史上、これほどまでに豊かな表情を見せ、饒舌に物語る暗闇はないのではないか。
闇に縁取られた作品世界はしかし、キラキラとした光にもあふれている。小四は懐中電灯を肌身離さず持ち歩き、冷たく残酷な世界を必死で照らそうとする。そして、懐中電灯を手放したとき、私たちは、彼の信じた光り輝く世界が、幼いイノセンスが、闇にのみこまれたことを悟る。それでも4時間弱、暗闇からスクリーンを見つめていた私たちの心に刻まれるのは、見ているこっちが恥ずかしくなるほどストレートな言葉で小明を励ます小四のすみきった瞳、スクリーンテストで涙を浮かべる小明の蠱惑的な表情、「たったひとりの友達だった」と絶叫する小馬(シャオマ)の涙、無情に棄てられたテープに吹き込まれた王茂の歌声、胸を締めつける甘いメロディと、どうしようもないほどまぶしい「A Brighter Summer Day」だ。
『怒りの日』(カール・TH・ドライヤー)
Vredens Dag/1943/DK
2008年、国内の上映権切れに伴い、カール・ドライヤー監督の5本の長編映画が最終上映された。『裁かるるジャンヌ』(1927)、『吸血鬼』(1932)、『怒りの日』(1943)、『奇跡』(1954)、『ゲアトルーズ』(1964)という、今考えても垂涎のラインアップである。だが、当時の私は『怒りの日』の衝撃と興奮にすっかり取りつかれ、ほかの作品についてはほとんど印象がないというありさまだった。以来『怒りの日』は、現在に至るまで、私の浅薄な映画体験の頂点に君臨し、心の中でにぶく、暗い輝きを放ち続けている。
『怒りの日』はキリスト教最大の汚点ともいえる魔女狩りを題材に取った映画だ。実在の魔女を描いた戯曲「アンネ・ペータースドッテル」を原作にしている。『怒りの日』が特異なのは、善と悪、聖と俗の境界があいまいで、複雑に絡み合っている点だ。明確なモラルが提示されないし、歴史の罪を告発しようとする姿勢もない。後世の人間が「後出しじゃんけん」で歴史に批評を加えるような傲慢さからドライヤーは距離を置く。
ドライヤーという作家を論じるために、彼の生い立ちに触れておきたい。カール・ドライヤーは1889年、スウェーデンに住む裕福な地主が女中を身ごもらせた。女は地主一族の命令でデンマークにわたり、コペンハーゲンで秘密裏に男児を産んだ。カールと名づけられた私生児はドライヤー家に引き取られたが、その少年時代は決して幸福なものではなかったらしい。17歳で家を出たカールが養家を訪ねることは二度となかったからだ。はなればなれになった実母はさらに苦難の道を歩んだ。カールを産んだ後にスウェーデンに戻り、別の男性の子どもを妊娠したが、相手の男性に結婚を拒否され、中絶のために盛った硫黄で命を落とした。貧困と孤独の中で死んでいった母の運命をドライヤーは18歳のときに知ったとされる。母を死へと追い詰めた男性社会の欺瞞と抑圧は、その後のドライヤー作品の主題として繰り返し描かれることになった。男性主義の暴走として魔女狩り(じっさいには男性の犠牲者もいたとされるが)は、ドライヤーにとってあつかいやすいテーマだったのかもしれない。
村の牧師館には初老の牧師アプサロンと年若い妻アンネ、そしてアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。情熱と欲望を持て余したアンネは若く快活な義理の息子に心惹かれ、マーチンもまた若い母親の妖しい魅惑にのめりこんでいく。こう書くと、本作が驚くほど通俗的でエロティックな筋書であることがわかる。禁忌的な欲望のドラマと濃い陰影をたたえた画面は、同時期のアメリカ映画で量産されたフィルムノワールにも通じる。
魔女狩りという暴力的な狂気を背景に、田舎の素朴な牧師館にはただならぬ重苦しさがただよう。ふりこ時計が冷たくときを刻むなか、彫刻のようにみえる俳優たちが厳格な芝居を織りなしていく。魔女裁判や拷問、処刑の様子も『裁かるるジャンヌ』よりもはるかに冷酷な手つきで描かれ、壮絶だ。対してアンネとマーチンが禁じられた逢瀬を重ねる小川や野原は自然光と甘い旋律によっておおらかな官能をはぐくむ。『怒りの日』は、このふたつの世界によって構成されているといっていい。きびしく排他的な宗教観と若く情熱的な欲望との間で引き裂かれる人々の物語、といえるだろうか。ふたつの世界はしだいにテンションを高めていき、嵐の夜に劇的な衝突を見せる。観客は文字通りの「魔」を目の当たりにし、戦慄することになるのだが、照明、音響、カメラワークから登場人物の演技に至るまですべてが緻密に設計されており、息を殺すほかない。つづいて小川で演じられるアンネとマーチンの最後の逢瀬もまた、それまでとは全く違った風景を見せ、ふたりの中で何かが決定的に変化してしまったことを暗示する。
『怒りの日』において本当に魔女が存在したかどうかは、最後まであいまいなままだ。アプサロンが突然死したのは、妻と息子の不貞を知ったことによるショック死なのか、それとも本当に魔女の呪いなのか。マーチンがアンネに惹かれたのも、若い男女のごく自然ななりゆきなのか、それともアンネの魔性によるものなのか。アンネを演じたリズベット・モビーンの「燃えるような瞳」は、そのどちらも一定の説得力を持たせている。むろんドライヤーは意図してあいまいさを残している。原作の戯曲はもっとはっきりとアンネを魔女として描いているからだ。
しかしこうしたあいまいさがあるからこそ、不寛容で抑圧的な世界と対峙し、欲望し、やがては異形の者として敗れ去っていく女性の姿をアンネの物語は、魔女狩りという歴史上の特殊な出来事を超えた普遍性を帯びて、私たちを戦慄させる。『怒りの日』が封切られた1943年、すでにドイツに占領されていたデンマークでも公然としたユダヤ人狩りが開始された。魔女狩りの物語を通して、ナチスのユダヤ人政策に抵抗する意図はおそらくドライヤーにはなかった。ただ同時期にアメリカ映画で起きたフィルム・ノワールの潮流と同じく、当時のデンマークがおかれた陰鬱な気分が色濃く作品に反映していることは間違いないだろう。スタッフはおろか、監督名すらクレジットされなかったこの映画は、ドライヤーと同じく抑圧と不寛容の時代が産み落とした名もなき私生児だったのかもしれない。そしてこのどうしようもないほど暗く、呪われた映画が、今も私たちの心を揺さぶるのは、世界が相変わらず抑圧と不寛容に満ちている証拠なのだ。
読んだ本
最近、家で映画見てても寝ちゃうんですよね。休みの日に映画館に出掛けるのもすごくおっくうで。それで頭を切り換えて本を読むことにしています。映画関係の本を何冊か読みました。
- 作者: トムサントピエトロ,Tom Santopietro,堀内香織
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- 作者: 切通理作
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『帰ってきたウルトラマン』といえば「11月の傑作群」(第31〜34話)が有名だが、この4作も含めた中盤の作品群は(第21話「怪獣チャンネル」から第35話「残酷!光怪獣プリズ魔」あたりまで)はウルトラシリーズ全史においても屈指といえるほど、傑作、意欲作、問題作が連打された黄金期といえる。そんななか、個人的に低評価だったのが、田口、山際コンビが手掛けた第29話「次郎くん怪獣に乗る」だった。「次郎くん怪獣に乗る」ってサブタイトルも間抜けだし、ジュブナイルとしても『タロウ』ほど洗練されていないようにおもえた。だが本書を読んで、次郎君が閉じ込められるステーションは胎内のイメージで、その中で好きな女の子の秘密(へその緒)を見るという性のイメージが忍ばせてあったことを知り、膝を打ったのであった。さらに『ウルトラマンA』で私の大好きな美川のり子隊員のメーン回、第4話「3億年超獣出現」と第22話「復讐鬼ヤプール」も田口氏のペンによるものだった。「3億年超獣出現」は美川隊員に中学時代から思いを寄せていた漫画家、久里虫太郎の暗い情熱に異次元人がつけこみ、久里の描いたまんがの通りに超獣が暴れるというストーリー。同窓会といつわって久里の屋敷にやって来た美川隊員が薬を盛られて眠らされ、監禁されるという展開は、幼い私に言い知れない恐怖と淡い興奮をもたらした。いわば性の目覚めともいえる作品ですね。田口氏が特撮番組のなかで意図的に性的なイメージを取り入れていたという話は興味深かった。
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ただある程度心の余裕をもって読んでいられるのは私が男性だからであって、「文科系男子」へと射程を移した第7章「それで、そのとき文科系男子は何しているの?」はなかなかに痛いものがありました。ここで取り上げられる『(500)日のサマー』を当時付き合っていた恋人と見に行き、私がトムを、彼女がサマーを擁護して微妙な空気になった思い出がある。今回、10年越しにサマーは、そして彼女はこんなことを考えていたのかと理解できた。ちなみにその彼女と決定的に別れた夜、1人で『ブルーバレンタイン』見たというオチもあります。
自分は文化系女子ではないけど、交際してきた女性は文化系女子ばかりなので、映画を通じて彼女たちが何を考えていたのか、どうしてあのとき怒っていたのか、泣いていたのか、気づかされるときがある。その意味で真魚氏の本は、私にとって過去の失敗を突きつける地獄巡りのようでもあった。ただ、そんなふがいない私にも優しく諭してくれる。「別れた相手に改めて何かをしてあげることはできない。だとしたら、そこで負った心の傷で成長し、次の恋人に以前はできなかった配慮ある愛し方をするしかない。傷つけてしまった当人には何もできず、次の恋人を幸せにするというのは妙なようだけれど、愛の流れというものは誰もがそうやって、次へ次へと渡していくしかない。そして次の恋愛では、前と同じ過ちを犯さないようにすればいい」。かつての恋人をふと思い出し、急に電話をかけて謝りたくなるときが、たまにある。そのたびにそれは所詮は自分のエゴでしかなくて、彼女たちは彼女たちの幸せを生きているはずだからと思いとどまる。積み重なっていく後悔と選ぶことのなかった人生を引きずりながら、それでも今の恋人に対しては少しはましな男になっているとおもいたいし、いまの毎日が最良の選択だったと信じるしかない。いつまでたってもうまく恋愛できている気がしない自分にとって、映画とおなじく勇気づけられる批評でした。