Devil's Own

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「怪獣使いの遺産」感想―集団心理の恐るべき「正義」を描いた問題作「怪獣使いと少年」の続編の是非

今日はちょっと気合入った記事書くよ。特撮ネタだけれど、そこから現代社会に潜む構造的暴力の病理性を考察してみたい。

きっかけとなったのは今日放映されたウルトラマンメビウス怪獣使いの遺産」。
直木賞受賞作家である朱川湊人がシナリオを執筆するというだけでも鳴り物入りだが、この作品1971年に放映された特撮ドラマ「帰ってきたウルトラマン」の金字塔的傑作「怪獣使いと少年」の続編という性格も持っている。全然知らない人からすれば「いや、そんなことで盛り上がられても・・・」と思うかもしれないが、ファンからすれば、30年ぶりにこの作品の続編ができるというのは凄いことでもあり怖いことでもある。
それほど、「怪獣使いと少年」が見るものに与えるトラウマは深いものなのだから。

帰ってきたウルトラマン第33話「怪獣使いと少年」PartA

帰ってきたウルトラマン第33話「怪獣使いと少年」PartB

帰ってきたウルトラマン第33話「怪獣使いと少年」PartC

異端への恐怖心に取り憑かれた人間の集団的な差別意識と排他思想、その恐ろしさと愚かしさを痛烈に抉った今見ても非常にショッキングな問題作だ。
この話においてウルトラマンという超人は果たして「正義」を実践しえただろうか。いやそもそも「正義」というものがたった一度でも実践された場面が、この作品中に果たしてどのくらいあるだろう。僕個人としては、物語の中盤にパン屋のお姉さんが少年にパンを売ってあげるシーン以外は理不尽な偏見差別と不条理な暴力が全編に渦巻いている気がする。そして物語を支配するこの一貫した狂気が、現代を生きる私達の集団心理の究極的な縮図ではないだろうか。
全体調和の名の下に、排除されていくマイノリティーの声。そこに耳を傾けるほど、心にゆとりがある人間が果たしてどの程度いるか。こう書いている僕でさえ不安だ。
単純に考えてみるといい、例えばあなたの近所にもし北朝鮮イラクの人が引っ越してきたら、あなたは普段と同じような優しさを注ぐことができるだろうか。

同じように、社会的弱者の立場にスポットを当て、社会=世間の持つ病理性に対する鋭い洞察を示す貴重なドキュメントに映像作家森達也が撮った「A」や「A2」がある。

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これは、地下鉄サリン事件後、テロリスト的カルト教団として報じられるオウム真理教の広報担当・荒木浩に密着取材し、徹底して「オウム内部」の視座に拘って撮られたドキュメンタリー映画だ。ここで描かれるオウムの日常はあまりに平坦であり、私達が彼らに対して抱く絶対悪のイメージとはおおよそかけ離れていることに驚かされる。続編「A2」で、信者の居住を集団的に反対し糾弾する一般市民の姿を見ていると一体どっちが「オウム」なのかわからなくなってくる。
正義の実践とは、他の正義の圧殺に他ならない。そう思うと私達が属し、依存している「世間」というコミュニティーの「モラル」とはどれほど曖昧なものだろうか。異物への拒絶意識を過剰に煽動し、排除しようという世間のシステムは実に恐ろしく、そして悲しいものであるのに、一度その矛盾を指摘すれば、簡単にマイノリティーの立場に落ち込んでしまうかもしれないという恐怖心。このメンタリティーが私達の心に巣食っている限り、同じような悲劇は永遠に繰り返されるに違いない。

さて、話は長くなったが、今日放映された「怪獣使いの遺産」は、救いのない故に生々しい疑問を見るものに突きつけるオリジンに、ひとつの答えを提示するものであった。

ストーリーは単純明快で、「怪獣使いと少年」の悲劇から30年後、再びメイツ星人が地球を訪れる。30年前殺されたメイツ星人の息子である彼は、暴力的な地球人を批判し、復讐の意識にとらわれ怪獣ゾアムルチを覚醒させる。
とは言え、30年前に死んだメイツ星人と唯一心を通わせていた少年リョウの存在を知り、他者と理解しあう心というメイツ星人の「遺産」を認識する。全てを許し地球人を信じたい気持ちと肉親を殺されたことへの憎しみとの葛藤に身を震わせるメイツ星人。
もはや憎しみの権化と化したゾアムルチをウルトラマンメビウスが倒し、メイツ星人は父の残した「遺産」を胸に帰っていくというもの。
まだ心に迷いが残る限り和解の握手はやめておこうというのがポイント。

戦闘シーンは「怪獣使いと少年」と同じく雨が降る。これは素晴らしかった。
で豪雨の中で佇み、「信じたい気持ちがあるのにまたすぐに憎しみが湧いて来るんだ」と慟哭するメイツ星人のセリフにはなかなか鬼気迫るものがあった。今回はメイツ星人の心象風景として雨が用いられるのも興味深い。

まぁ説明の甘さとか、「街が大変なことになっている」という伊吹隊長のセリフを諸悪の根源であるリュウに言わせるのはいかがなものか?という疑問もあるが、一応は30年前の救いのない悲劇に初めて「救い」の兆しが見えたわけで、これはこれでいいのではないかと思う。
これは原作を愛してやまない人からするとかなり批判を受けそうな続編ではあった。
第一、メイツ星人が死んだ後も、穴を掘り続けているリョウ少年が、「先にメイツ星に行って握手をするんだ」と急にポジティブになっているというのはちょっとキャラ変わってないか?
ただ、30年前のリョウ君とメイツ星人の新撮シーンは相当グッと来た。あの数カットでも十分、リョウ少年の心境の変化を説明付けるものであった気もする。少年は成長したんだよ。でも「怪獣使いと中年」じゃちょっとね(笑)

評価は分かれるだろうが、これもひとつの答えなのではないかと思う。「怪獣使いの遺産」は、他者を理解する心であるという極めて陳腐で理想主義的な解答にはなってしまったが、まぁこれもいいんじゃないだろうか。

2ちゃんのスレでは総スカンが予想されるが。。

おお、今回の放映のせいか「怪獣使いと少年」及び「怪獣使いの遺産」がはてなキーワード登録されいるではないか。「遺産」の完成度は置いといて、これを機にあの傑作が認知されるんだから、まぁ嬉しいことです。