Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

90'sのニヒリズム、及びその象徴としてのノストラダムス

今年の年末はこれで決まりだね。

WON'T BE LONG(DVD付)

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バブリー過ぎる。商業音楽かくありなん。奴らの欧米ノリにはついていけないぜ。。。

まぁ年末行事のようなこのコラボ企画にも言える事だが、ここ最近の世間の90年代に対する懐古的なムードは、それだけ現在が世知辛いということなのだろうか。にしても、去年マックやファミマでかかっているのが、「こなーゆきぃいい」で、今年はコレだとすれば時代は鬱屈しているのか、開き直ってきてるのかよくわかんないなぁ。
こういうふうにポップミュージックが享楽的になっていく現象って、90年代後半のトランスブームのイギリスを思い出す。時代はめぐるといいますか。。

ヴォイスの90年代カルチャー総論も一通り読んだけど、文化的には最もエッセンシャルな部分であるアーリー90’sのイメージがいまいちピンとこなくて。僕にとって90年代前半って渋谷系より小室ファミリーのイメージが強いんだなと実感した。後半は98年世代とそれからノストラダムスの大予言に象徴される終末思想が時代の空気としてあって、その二つが僕の90年代後半の日常に大きな影響を与えていたのかなと思う。

特に後者はでかいな。僕は小学生から受験勉強しなくちゃいけなかったし、というのは地元の小学校の治安があまりに悪くて、僕自身もどうしようもない悪ガキだったからこのまま地元の中学に行くのはまずいなという気持ちもあって、自分の中で生まれて初めて暗い現実との折り合いを付け始める時期だった。でそんな中、一連のオウム騒動と酒鬼薔薇事件などの時代のトピックスともシンクロしていって、僕らの国には僕らの国の「戦争」があるんだと、秘かに認識し始めた。
要するに世界はちっともよくなっていないんだという厭世的価値観が頭をもたげ始めた時期なんだと思う。
それから中学に入って、ミッシェルの「世界の終わり」に熱狂しつつ、でも初期ドラゴンアッシュのヴァイヴスにも少し共鳴する気持ちもあって、1年後の「恐怖の大魔王」降臨に少しだけ期待していたと思う。というのは僕にとって「世界の終わり」はとても身近である一方で、やはりどこかフィクションめいた遠い未来のお話でもあったからだ。
大学に入ってジャーナリズムの勉強して納得したのは、やはり多くの人間にとって、一連のオウム騒動はマスコミによって脚色された虚構の劇場だったのだと思う。地下鉄サリン、リンチ、一家皆殺しなどというダークなトピックスが壮大なオペラのように大衆を惹き付け、その相乗効果があの狂気的なムードを生み出していたのだと今ではよくわかる。
だから僕自身、オウムや酒鬼薔薇事件をテレビで観れば観るほど遠い国の出来事のような、少なくともリアルな日常とはおおよそかけ離れた出来事としての印象を強めていったのだと思う。要するに僕にとってオウムや酒鬼薔薇といったセンセーショナルなトピックスは、「ノストラダムスの大予言」と同じくらいのリアリティーしか持っていなかったのだ。僕はそのことを悪いとは思っていない。
僕は僕なりに、そのような出来事から死や暗闇について考える視座を養ってきたし、むしろ「ノストラダムスの予言」があるとないかの問題死生観に重要な影響を与えるとさえ思っている。
前にもこんなこと書いたが、小学生の頃は、よく99年の天変地異があらゆる文明と生命を滅ぼすダイナミズムを夢想し、戦慄し、そして心酔した。
死というものは、恐怖であり、故にとても魅力的で妖しいものだったのだ。
先に述べた時代背景は勿論だが、当時熱病のように社会を席捲していた「新世紀エヴァンゲリオン」も、そうした世紀末思想に拍車をかけていたのかもしれない。
ただ僕自身は「ノストラダムスの大予言」がフィクションだとどこかで認識していたんだと思う。その証拠にいざ99年の7月になると僕は急速に醒めたからね。
逆に、9・11のテロが、あたかもフィクションのような錯覚に陥ったことの方が、衝撃だった。
あの映像を見て、誰もが慄然としたに違いないが、心のどこかで「映画みたい」だと思わなかった?
結局、人間というものは、今日の状況が明日も続いているという自己組織的な幻想がないと、ダメなのかもしれない。
だから僕自身も養老さんがどこかで言っていたように「死」に対する冷徹な視線が欠落している現代人の典型なのかなと思う。