Devil's Own

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「僕らのバンド」の愛と裏切り

いくつかの記事だけ、PCに保存して、前身のブログを消しました。まぁたいしたことではないが、一応報告。

さて、先日ノリで選出した今年のベストアルバムを掲載したのではあるが、一応の説明責任ちゅうことで、レヴューしましょう。
今日は10位のアジカン

ファンクラブ

ファンクラブ

先日も触れたのだが、このアルバム、決して突出した傑作というわけではない。バンドにとってのキャリア最高傑作であることは認めるが、プロダクションの甘さや全体的なまとまりのなさなどまだまだ課題は残っているし、実際僕は最後までこのアルバムを選出することなど念頭に置いていなかった。

彼らのこれまでの音楽的特長に関して言うなら、それは大半がウィーザーセカンドアルバム「ピンカートン」とオアシスのファーストアルバム「デフィネイトリー・メイビー」という90年代の2大金字塔に影響を受けている。
つまり、ポップで親しみやすいパワーコードとメロディーに、誰かと繋がることへの不確かな可能性を歌った日本語詩を乗せたギターポップであった。

前作「ソルファ」のラストに収録されているスマッシュヒット、「ループ&ループ」がそういったアジカンの音楽的な特質における集大成ともいえる名曲であり、理想的なジェネレーションアンセムだ。この曲を掲げることでアジカンは名実ともに「僕らのバンド」となった。こうして生まれたバンドとファンの「繋がり」は、純粋無垢な子ども達の口約束のようなものであり、一方では、10代の少年少女の最大公約数的な感受性にひれ伏す行為でもある。つまり、最もパーソナルなリアリティーを滅却しなくてはならない危険性も孕んでいるのだ。

これは、あくまでも個人的な見解なので、気にしないでいただきたいのだが、ドラゴンアッシュの「陽はまた昇りくり返す」、バンプ・オブ・チキンの「天体観測」などはその典型だろう。この2曲は、当時思春期の中にあった少年少女の日常と感受性を見事なまでに切り取った楽曲だ。僕自身この曲がリリースされた当時は少なからず興奮した。しかしながら、その後、不特定多数のファンを得て、その予定調和なコミュニティーに安住してしまった彼らの音楽が再び僕の心に響くことはなかった。
アジカンは前2作で築き上げた「売れ線ギターポップバンド」というプラスともマイナスともなりうる自らの立場から逸脱した作品をリリースした。それがサードアルバム「ファンクラブ」だ。セールス面からもファンとの関係性からも、彼らがこのような音楽的冒険をする必然性は皆無と言っていい。先行リリースされた「ブラックアウト」や「ブルートレイン」などの楽曲でそのような実験性の片鱗は見えなくもなかったが、僕自身もこのバンドは3枚目以降急速に退屈になるだろうなと予測していたので虚を衝かれる思いだった。
まずサウンド面から言えば、リズム解釈に劇的な変化が見られる。ザゼン・ボーイズのような刺激的な変拍子があるわけではないが、あくまでギターポップという土壌で様々なリズム面での可能性の模索を行うところにバンドの覚悟が現れているのかもしれない。とは言え、これまでのいい意味でも悪い意味でも「良質なギターポップバンド」だったアジカンの姿はここにはない。このアルバムは間違いなく「僕らのバンド」の第2章であり、そしてそれは僕らへの最初の裏切りでもあるのだ。

「裏切り」と書いてみたものの僕は決してこの言葉を否定的な意味で書いているわけではない。むしろ「僕らのバンド」である限り、このような「裏切り」に走ることは非常に勇気のいることであるし、セールス的には自殺行為にもなり兼ねないのだ。だからこそ、僕はアジカンというバンドがこのアルバムをリリースしたことをとても評価している。
多くの人に愛され、自分達のメッセージを不特定多数の人間に伝えることが叶ったことから来る責任感と苛立ち、焦燥などのネガティヴな感情の波は後藤浩文の書く歌詞にも確実に反映されている。
間にバンドのフロントマンであり、楽曲のメインライターでもある後藤浩文は、前述した2バンドのフロントマンと比較するならば、ヒップホップのリズム的方法論に深く影響を受けていた降谷健志や、ストーリーテラーとして卓越したポテンシャルを持っていた藤原基央と比べれば、少しだけサブカル的であること以外に特筆すべき点はないのかもしれない。しかしながらこれまで後藤は、音楽によって「繋がる」ことへの渇望を原動力として、最終的には「希望」というある程度前向きで肯定的な感情にフォーカスしたリリックを書いてきた。ファンも後藤のそのようなアティチュードに惹かれてきたに違いないし、そのようなメッセージを持った曲をライヴ会場などでシンガロングすることで、ひとつの大きな「繋がり」が生まれることによるカタルシスの構造も当然のファン心理だろう。しかしながら、このアルバムで後藤が描く詩世界はそのような「繋がり」の構造を予定調和だと否定しかねないアイロニカルな性格を待っている。アルバム1曲目「暗号のワルツ」が「慌てなくたっていつか僕は消えてしまうから」という言葉で始まり「君に伝わるわけないよな」という言葉で結ばれていることが象徴するように、アルバム全体を通して後藤のリリックは非常にネガティヴなムードに支配されている。

とはいえ、彼の書く詩が唐突に後ろ向きになってしまったのは、後藤ひいてはアジカンというバンドの誠実さ故である。音楽によって、僕らは確かに繋ろうとした。そして繋がった瞬間もあったかもしれない。だからこそ、もう一歩大きな前進をできるじゃないかというリスナーへの信頼感の表れ。
全てをロックスターに委託し、いつのまにか主体性を失ってしまうリスナーに対する愛に満ちたアフォリズムだ。
ブルートレイン」以降の流れが素晴らしい。「真冬のダンス」などはバンドのリズム面での試行錯誤と後藤のソングライティング能力が結実した傑作だ。

にしても、最近リリースされたシングル「或る街の群青」はそのようなアジカンの第2ステージを推し進める秀作。

或る街の群青

或る街の群青

映画「鉄コン筋クリート」の主題歌ということで、楽曲のコンセプトはかなりそちらに依存しているようではあるが、ブリッジ部からラストのカタルシスはなかなか素晴らしい。にしてもまだまだ発展途上ではあると思いますがね。