Devil's Own

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桃源郷ラメリカへ捧ぐ―911以降のアメリカは失われた都市Ysなのか

 あの、これからは僕もタイトルはちょっと解りやすい感じにしますよ。
 昨日またホモセクシャルの方に言い寄られた。もう僕から同性愛者の人と類似する電波か何かが出ていることは十分承知しているので、諦めがついている。紳士的にお誘いを受けたときは、僕は女性が好きなのでと言って相手の誤解を改めて丁重にお断りすれば、何事もなく済むことが殆どなのだが、昨日はいささか強引な人だったのでちょっと怖かった。
 さてテストやレポート提出ラッシュが一応の落ち着きを見せたところでの、2006年ベストアルバムレヴューがようやく第2位、やれやれですよ。

Ys

Ys

 タイトルでもあるYs(イース)はフランス・ブルターニュ地方に伝わる伝説に登場する架空の都市だ。ドビュッシー前奏曲「沈める寺」はこのYsの伝説をモチーフにしているのだが、その概要は以下のようなもの。

ブルターニュ南部のコルアイユの善良な王グラドロンは、溺愛していた美しい娘ダユーの為にイースの都を建設しました。イースは海面よりも低い土地に建設されたため、立派な水門と堤防に守られていました。ダユーは放蕩で悪徳の限りをつくし、彼女の治める都は欲と快楽の上に繁栄していました。美しいダユーに求婚する男性は数知れず、彼女と一夜を過ごした男性は魔法によって無惨にも殺され海に捨てられていました。ある日、頭から足の先まで赤の衣装に身を包んだ不思議な王子が現れます。今までの男とはまったく違うこの男は、この堕落した町に罰を与えるべき登場した神の使いでした。ダユーは恋に落ち、男の要求通りに、王が首にかけていたイースの水門の鍵を盗み出してしまいます。それと同時に、繁栄した都は一瞬のうちに、海底に沈んでしまいました。それからというもの、人魚になったダユーは、その魅惑的な歌声で男たちを海に誘い出しました。人魚ダユーの姿を見たものは、決して生きて戻ることはなかったといいます。
海底に眠るイースの都は、グラドロンの教会でミサが行われなくなるとき、この世のものとは思えないほど美しい姿で浮上してくると言われています。パリ(Par-Is)は、「イースのような」という意味から名づけられました。

(参考:コラージュ・ギャラリー「イースの伝説」
 作品制作の際に彼女は実際にはこの伝説を意識したわけではなく、タイトルのインスピレーションは音源やアートワークが出揃った後になって得たものらしいが、キリスト教的断罪のドグマに根ざしたこの美しい都市をめぐる終わりと再生のイメージは、このディスクの幻想的な世界観を上手く表現していると感じる。
 彼女の友人でもある画家ベンジャミン・ヴァイアリングが描いた15世紀宗教画を思わせる静謐で美しいポートレイトに、型押し処理が施されたスリーブなど不必要にゴージャスなアートワークが、ダウンロード主流へとシフトしていく音楽産業の情報化における、CDというメディアの新たな表現性の提示なのかはわからないが、なかなか物欲をそそる。収録された5曲全てが10分弱の大作で、それぞれ独立した物語性を持っており、ジョアンナ独特の柔軟なメロディーラインとハープの調べに乗って語り掛てくる。作品を通しても、さながら5つのチャプターからなる一大叙事詩のようですらあるリリックの壮大な世界観と、ヴァン・ダイク・パークスによるオーケストレイションアレンジのスケールの大きさも手伝ってかなり大仰な印象も与えかねない。加えて彼女のヴォーカルもビョークあたりを流れを汲む、いい意味で個性的な悪い意味で灰汁の強い類のものであるため、普通長時間聴いていると胃もたれを起こしてしまいそうだが、僕は不思議と何度も聴いていた。
 元来フリーフォークに出自を持つ彼女の存在が、アメリカのポップ・アイコンたりえるのかという話が、各メディアでしきりに議論されているのを見かけるが、僕自身としてはあまりそこには興味がない。確かに、グランジオルタナの立役者でもあるスティーヴ・アルビニジム・オルークに加えて、ビーチボーイズサウンドを支えてきたヴァン・ダイク・パークスの名前が同時にクレジットされていることにはかなり興奮するし、実際にこのアルバムもアメリカのそういったポップミュージックを巡る博物誌的な様相を呈している。そういう意味ではシンボリックな一枚であることはわかるし、こんな風にアメリカのカルチャーを体現するミュージシャンは恐らくエミネム以来だろう。しかし、エミネムの音楽、というよりヒップホップカルチャーが映画「8マイル」*1以降くらいから急速にショウビズ化し、商業化していったことを考えると何だか素直にジョアンナを新しいポップアイコンとして祭り上げるのも気が進まない。
 先ほど大仰な印象を与えかねないと述べたが、それはまさにその通りで、むしろアレンジ、ヴォーカル、メロディーライン全てにおけるトゥーマッチ具合がこの音楽の最大の魅力だったりする。フリーフォークをベースにはしているが、その中にアメリカのポップカルチャー史からの参照がこれでもかと詰め込まれ、豪華絢爛な輝きを放ちまくっている。そしてこの豊穣にして重厚なポップミュージックのアマルガムは、アルビニ、ヴァン・ダイク、ジム・オルークによるベルトコンベアー式のプロデュースワークによるものというよりは、やはりジョアンナ・ニューサム本人の個性とソングライティングにおける卓越した独創性に拠るものであるであることも明白だ。
 ポップアイコンとしてのジョアンナのディスクの意味性について解釈するならば、やはり911以降という文脈で語ることになるだろう。ベンダーズの映画でも語られることだが、911でアメリカ人は、自分達へ向けられた世界からの憎しみを初めて突きつけられ、そして試された。自由な国アメリカの虚構を、正義の曖昧さを。それに対する答えが、あの異様なほど狂熱的なナショナリズムへの傾倒だったとするならば、やはりアメリカという国は911が起きたあの日に、イースの街のように沈没してしまったのかもしれない。

 ジョアンナが歌うユートピアが、沈んでいったアメリカへのレクイエムなのか、それとも美しい姿で復活するこれからのアメリカのサウンドトラックなのか。それはまだまだわからない。

*1:大好きな映画ですが。