Devil's Own

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「痛み」による自己肯定という楽天性―瀬々敬久・金原ひとみに僕が苛立つ理由

 なんかあれですね、先日書いた栗山千明に関する駄文が公式リンク集にトラバいただいたようで。「ディープな栗山ファンは必読だ」という紹介文までいただいて(笑)本当すみません。
 今日作ったキーマカレーは旨いぜ。旦那様にしたい人ナンバーワンだぜ(笑)
 さて先日ユーロスペースで見た瀬々敬久監督作「刺青―堕ちた女郎蜘蛛」について。

 この作品含めて瀬々の監督作見るのは4本目だったのだが、どうにもこの人苦手だ。必要以上に手振れの多いカメラワークもそうだが、何より凡庸極まりない寓話的なコンセプトがいちいち癪に障る。「刺青」は一連の谷崎潤一郎作品でも特に思い入れが強い小説なので見に行かないわけには行かずに足を運んだが、マジで辛かったな。
あらすじはこんな感じ。

 妻子ある男性との不倫に破れ、出会い系サイトのサクラをしている女、アサミ。妻子と別居して家を出て、今日を生きるために自己啓発セミナーの勧誘をしている男、二ノ宮。穢れた過去を贖罪し、救いを求めるふたりは偶然に出会った。自らの選択で刺青を彫ることを決意したアサミは、天才肌の彫師・彫光に肌を委ねる。やがて彼女の背中にはみごとな女郎蜘蛛の刺青が躍り、それは彼女自身を劇的に変えてゆく。刺青は二ノ宮の生き方をも大きく変え、刺青の完成を夢見る彫光を虜にする。やがて刺青に翻弄される男と女たちの運命は、大きく揺らぎはじめた…。
公式サイトより引用。

 これを読んだ時点で全く原作からかけ離れているのだが、とりあえず瀬々自身も語るように作品のフォーマットを作っているモチーフは、「自己啓発セミナー」と「出会い系サイト」という二つのキーワード。構成員一人一人には悪意はないが、集団単位として遂行された行為の結果を見たとき、社会悪が実現されているという点で、「自己啓発セミナー」「出会い系サイト」は両者とも組織的な悪意のシステムだ。主人公二宮は過去に「自己啓発セミナー」を通して人生に希望を見出したという経験を持っており、彼が心酔するリーダー奥島の命令に従って、セミナーへの勧誘員をしている。本人はセミナーの正当性を完全に信じきっているが、後半になってセミナーの詐欺が警察によって摘発され、自らが無意識に「人を騙す」行為に加担していたことを知る。一方ヒロインのアサミは「出会い系サイト」のサクラとして、複数の女性キャラクターを演じ分け男性を騙すことで陶酔感を得ている。二宮と違って、こちらは「人を騙す」行為に大して幾分意識的であるが、メールを介した非対面形式のやりとりにより罪悪感が麻痺しているという意味では、自らの行為の悪性への認識が欠落していると言える。このへんのキャラクター設定ななかなか秀逸だと思う。苦手ではあるが、瀬々という監督は、個人単位の中に渦巻く都会的で現代的な悪意と狂気を見出し、その空虚感を描くことに長けた監督だと思う。「肌の隙間」では知恵遅れの叔母と甥の禁忌的な恋愛、「ユダ」ではニューハーフnの青年(少女)と夫のDVに悩まされる主婦の不可思議な旅といった具合にキャラクター設定はとても魅力的だ。瀬々は、そういったある種「社会的ルーザー(敗者・弱者)」であるキャラクターの関係性を描くことで、現代人に共通して潜んでいる虚無を浮き彫りにする特有の手法を持っており、それはピンク映画という土壌ならではの方法論であるとも言える。しかしながら、たいていその魅力は退屈なストーリー展開や説教臭い台詞回しによって、悉くスポイルされているのだが。
 後半、アサミと二ノ宮の運命はアサミの背中に女郎蜘蛛の刺青が彫られるのをきっかけに急展開していく。
 まぁ、刺青を彫られたことでアサミが人間的にしたたかな存在になっていくというコンセプトは原作を意識してはいるが、それにしてはその表現があまりに凡庸すぎる気がする。第一、原作は「彫士と女」=「傷つけるものと傷つけられるもの」の関係性が、刺青の完成によって逆転することに本質的な魅力がある。この映画で、彫士・彫光がアサミの刺青を彫ることに「取り憑かれている」ことは一応台詞などで述べられてはいるが、その狂気や執着に関する描写が全くないせいで説得力に欠ける。
そしてなによりも癪に障ったのは、「刺青を彫る」という行為に、「痛みによる自意識昂揚」という極めて陳腐な意味しか与えられていないところだ。中盤のアサミの台詞にその軽薄さが、端的に現れている。読んでいるだけで苛立つが、転載しよう。

「針があたしの肌に突きささってて、
 墨があたしの肌に入って…
 痛みを感じてる時、
 あっ、あたし、 
 今ここにいるって、そう思った」

 ここまで堕してしまえば、そのメンタリティーはリストカット症候群のマゾヒシズムと大差なく、全く退屈と言うほかない。この時点で、僕の映画に対する興味は急速に失われていった。この作品ともつ精神性と共通しているのは、谷崎の「刺青」というより金原ひとみの「蛇にピアス」だろう。そう言えば、瀬々敬久金原ひとみに対して僕が抱く苛立ちはよく似ている。

蛇にピアス (集英社文庫)

蛇にピアス (集英社文庫)

 この作品に対する僕のスタンスは前身のブログでも度々取り上げたが一応明らかにしておこう。まずピアスやタトゥーを、若者のメンヘラの兆候の一種としてリストカット集団自殺と同列に並べること自体に僕はある種の薄っぺらさを感じてしまう。リストカットなりタトゥーなりピアスなり、何らかの自傷行為によって自分の存在を確認する人間はつくづくおめでたいなと思う。その安直さと言うか楽天的というか、僕がサディストだからかもしれないが、全くシンパシーが持てないし、自己肯定のための単純なクリシェにしか見えない。金原ひとみにしても瀬々敬久にしても、「痛み」を感じることに極度にアイデンティファイする人物を好んで扱うが、その楽天性に僕はどうしても軽薄さを感じてしまうのだ。
 こと谷崎の「刺青」関しては、全くの別格だ。その洗練された文章の素晴らしさに舌を巻くほかない。
刺青・秘密 (新潮文庫)

刺青・秘密 (新潮文庫)

 谷崎潤一郎に対して、ちょっとエッチな小説書いてるオッサン程度の印象しかもってない人がいるなら、それは今すぐ改めるべきだ。彼の小説は確かに映像化すれば、肉感的で官能的かもしれないが、彼ほど人間の純粋な想いを書くことに長けた作家もそういない。そして文章のリズム感と、美しさは殆ど芸術と言っていい。日本語を理解できる全地球人に読んでいただきたい。「刺青」は短いからとても読みやすいが、それでも「蛇ぴ」の何千倍ものソウルがこめられている。素晴らしい。この小説の中での彫士と女性は実際に肉体的交わりがあるわけでもなく極めてプラトニックな関係だが、そこにはむせ返るような官能と情熱が渦巻いている。これは物凄いことですよ。瀬々の「刺青」でもアサミが刺青を彫られた後失禁するシーンとかあったけど、それも単なる自己陶酔にしか見えなくて、彫士との濃密な絆みたいなものは全然見えない。川島令美嶋田久作もいい演技していたから、それだけに残念だ。
 
 それで、最終的にはアサミが売春して、二ノ宮が金を集め、孤児院に寄付するというなんだか、ベタ過ぎる贖罪のストーリーになってしまい、何だかなぁという感じだ。「許してーー」と絶叫しながらセックスする川島令美の演技に鬼気迫るものがあったくらいだな。川島令美はかなりいい演技していたと思います。瀬々はやっぱり瀬々だなと思った。

 「刺青」観るまで時間あったから、同ビル4階のシネマヴェーラの「大俳優丹波哲郎の軌跡」特集も2本立て見てきたんだが、こっちの2本の方が数倍素敵だったな。丹波哲郎サイコー。超カッコいい。マジ偉そうなのね。本当素敵だわー。石井輝男の作品もあるし、暇なときまた行こうと思う。