Devil's Own

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セカンドアルバムシンドロームの向こう側―The Rapture第2章が祝福するもの

 体面上18歳未満の出入りを禁止している時点でmixiがファックオフなのは明白なんだよ。18歳以降の人生なんて退屈な助長でしかない。僕も一生懸命、18以前の感受性や言葉を摑まえようと日々努力してみるけれど、所詮は虚構だから、僕にはエネルギーのネに違和感を感じたりはもう出来なくて、硬い羊羹を食わされるくらい憂鬱な気持ちになるんだぜ。
 そんなことはおいといて、ようやく2006年ベストアルバム総決算(?)
 第1位ですよ。ラプチャーですよ。

Pieces of the People We Love

Pieces of the People We Love

ブルースが踊るアルバムだ。クールなビートとスウィートなメロディーが溢れる完璧なダンスミュージックアルバム。心躍り胸高鳴るにも関わらず、どこか息も詰まるくらい切なくて苦しい。ミラーボールの輝きも、フロアの熱気も、コール&レスポンスも、鳴らない電話も、言えなかったコトバも、スマイルも、涙も、キスも、ゲロも、朝焼けも、つまりは僕らの胸の中にしまってあるアップダウンな幾多の夜たちの全てが詰まったアルバムだ。
 このアルバムの評価の低さには常々驚く。確かにポストパンクを筆頭にグラム、UKガラージ、リズム&ブルーズ、原初的なロックンロールなど様々な要素での解体が可能だったファーストアルバム「エコーズ」は破格の傑作であるし、プレイボタンを押して、一曲目「OLIO」が始まったときのあの興奮を忘れることは出来ない。ファーストほどラジカルな内容でもないし、「ポップになったね」とか「聴きやすくなった」などの言説でこのアルバムを過小評価している連中の言い分も解らなくはない。だけれど、僕はこのアルバムが、ファーストアルバムを凌駕する傑作であると断言できる。ポップミュージックがポップで何が悪いんだって話だ。第一ラプチャーは最初から、ポップメイカーとしての卓越したポテンシャルを持っていた。前作では革新的なサウンドプロダクションとルーク・ジェナーのヴォーカルの特異性に霞んで見えなかっただけで、よくよく聴いてみるとどの曲も「ソング」としての魅力に溢れている。ポストパンクやグラムロックをダンスミュージックとして再構築する彼らのスタイルは、以降、フランツ・フェルディナンドやキラーズへと継承されるが、そういった後発組とラプチャーが一線を画す点があるとすれば、それはサウンドの革新性というよりもむしろメロディーの普遍性と即効性と言ったほうがいい。今回のアルバムは、ジェームズ・マーフィーの手から離れることで、彼らのポップメイカーとしての才能がよりわかりやすい形で発露した、それだけの話だ。
 セカンドアルバムシンドロームとはよくいったもので、デビューアルバムが成功しその完成度が称賛されるのに比例して、アーティスト側の第2ステージへのプレッシャーは重くのしかかってくる。徒に膨れ上がった、期待と理想の前に挫折して言ったアーティストも多い。大衆とは我が儘なもので、ファーストアルバムのスタイルにあまりに忠実過ぎれば焼き直しだと揶揄され、だからといって急進的に変化したらしたで付いてきてくれない。商業的な成功を収めればセルアウトだと言われたりで、散々なものだ。ラプチャーは今回のアルバム制作に際して、このようなセカンドアルバムシンドロームに極力影響を受けないことをひとつの目標としていたと言う。そして「エコーズ2」のようなアルバムは作らないことと、パーティーバンドであることを忘れないことを強く念頭に置いた上でアルバム制作を実にリラックスした雰囲気で進めていたことが伺える。
 先ほども述べたように「エコーズ」はシーン全体に衝撃を与えたいわばパイオニア的アルバムだ。このアルバムが後のフランツやキラーズが商業的成功を収める土壌を作ったことを考えると、「エコーズ」のリリースは音楽シーンにおけるエマージェンス=創発だった。しかしながら一方で「エコーズ」そのラジカルさ故に、一聴してもその本質が見えにくいある種の難解さを持っていた。パーティーには仲間はずれがいない方がいい。だから、彼らの次のアルバムがよりわかりやすい形にシフトしていくのはある意味で必然だったのかもしれない。彼らのセカンドアルバムは、毎日ひとりでサンプラーを弄りまくっているようなコアな音楽ファンに届くのと同じように、今日もツタヤにaikoミスチルをレンタルしに出かける人々にも届かなくてはいけなかった。そうして彼らから届いたアルバムは、なるほど全ての人々が踊りださずにはいられないような狂わしいビートとスウィートなメロディーが詰まった完璧なパーティーアルバムだった。そうだよね、僕だってアクアタイムズ聴いているひとも、湘南乃風聴いている人も、レミオロメン聴いている人も、みんな一緒に踊ることが出来たらこんなに素敵なことはないと思う。ラプチャーが第2ステージで見せた「わかり易さ」は安易なシフトチェンジなんかでは決してない、人種、国境、ジェンダーは勿論、下らない音楽のジャンル分けやファッショントライブなどあらゆる制度的・文化的ボーダーを消し去り、祝福しようとする真摯なアティチュードの表れだ。
 彼らが「わかりやすさ」や「楽しさ」にフォーカスしたからといって、「エコーズ」が持っていたダークネスが失われたということはない。むしろリリック面で言えばそのブルーなフィーリングや喪失感はむしろ増しているといっていい。アルバム冒頭曲「Don Gon Do It」はルークの辛い幼少時代をモチーフにしたジョン・レノン「Mother」にも匹敵する親恨みの歌であるし、アルバム屈指の名曲「The Devil」も同じような喪失感をテーマにしている。いずれもダンスミュージックとしては申し分ないキラーチューンというところがポイントだ。ラプチャーは、ただ享楽的に刹那的に踊れば全てが解決するほど世の中はハッピーではないことを知っている。僕達のひとりひとりが心に傷を負っていて、それが自分だけだと思い込んでいることも知っている。心の底から笑いたいなら、同じだけ泣かなくちゃいけない。だからこそ、彼らは嗚咽しながらだって歌を届けてくれる。ひとりでも多くの人がパーティーで笑えるように。
 「僕らの大好きな人々の欠片」―そこには数え切れないほどの喜びと哀しみが詰まっている。アルバムラストに収められたサイケデリックバラード「Live In Sunshine」は、どんな最高な夜でも逆にどんな最悪な夜でも必ず訪れる朝焼けのように静かな感動を呼び覚ましてくれる。そしてまた、僕らは愚かな恋に落ちたり、かりそめなセックスをしたり、酒飲んで吐いたり、仕事に追われたり、泣いたり笑ったり、するだろう。
The Rapture「Get Myself Into It」

The Rapture「W.A.Y.U(Whoo! Alright!Yeah.. Uh Hah)」