Devil's Own

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自己責任論の「正義」不在―ウルトラマンメビウス「デスレムのたくらみ」に思う人質バッシング問題

 特撮ネタを無理矢理社会学的に考察するお得意の記事です。
 ここ数回の「ウルトラマンメビウス」は来る最終話の為にほぼ毎週歴代ウルトラマンと演じてきた俳優達のゲスト出演が続いていて、まぁウルトラファンは文字通り祭り状態なのだが、前回は「帰ってきたウルトラマン」(以下帰マン*1)の客演回で、当時、ウルトラマンに変身する郷秀樹を演じた団時朗スーツアクターとして「帰マン」を演じていたきくち英一がゲストとして登場した。メビウスを助けるため颯爽と登場した「帰マン」の姿を見上げてきくち英一が「ウルトラマンが帰ってきた!」と叫ぶシークエンスがマニア向けのハイライト。当然、リアルタイムの子供達にはこの場面がどんなに熱いのかは理解できないだろうけど(笑)
 何度かここでも書いてきたように「メビウス」の客演回は、旧シリーズへのオマージュが随所に盛り込まれており、それが毎回涙腺を刺激してくるのだが、今回も「帰マン」のシリーズ的特色を上手く汲み取るように努力はなされていたと思う。とはいえ「レオ」や「80」の回ほど濃いものではなかったので、*2もう少し別の視点から今回のお話「デスレムのたくらみ」を考察してみたい。
 ストーリーが抱えるテーマを簡単にレジュメすると、地球侵略とウルトラマンメビウスの社会的抹殺を狙う宇宙人デスレムは、隊員達の乗った大型母艦フェニックスネストを人質として捕獲し、メビウスの完全なる敗北を迫る。仲間が人質になっているために、戦うことのできないメビウスと防衛組織を市民が激しく非難し、生きて人質になった隊員達を「恥を知れ」と罵倒する。当然、そんな人々の姿にメビウスは疑問を感じる。「一体、何のために僕は戦ってきたのか?」
 守るべき筈の民衆達が、恐怖と衆愚の集団思考に陥り、結果正義の実践を阻んでしまうという問題はこれまでの度々取り上げられてきた。「正義」の具現化である「ヒーロー」の存在意義を根底から揺るがす非常に本質的な問題である。それは正義の実践と言うものが、勧善懲悪思想に根ざした単純な二項対立構造に留まらないからこそ現れてくる永遠の課題でもあり、永井豪の名作「デビルマン」での救いようのない結末がどこかリアリティーを持って迫ってくるのも、この「正義実践」が本質的矛盾ゆえにである。現実の正義は「水戸黄門」のようにはいかない。
 で、今回の人質に対する民衆の一方的バッシングの様相は、やはり明らかにイラクにおける人質バッシングを連想させるものがあり、面白い。2ちゃんねるなんかでも、このリンケイジが議論となる場面がいくつか散見されていて、しかしながら「謂わば自衛隊にもあたるクルーが人質になる今回のストーリーと、全くの民間人が人質となった実際の出来事を同じケースとするのは多少無理がある」という意見が、大多数で、僕自身の印象としても同じようなところ。シナリオを担当した太田愛は平成ウルトラで数々の傑作・佳作を残しているだけに、*3無理矢理に人質事件をモチーフとし、しかも後半唐突に民衆が改心するという、ご都合主義展開の不自然さは(ウルトラシリーズなんだからそこはある程度甘受しなくてはいけないのだけれど)深刻で、今回は太田脚本の中でも愚作と言わざるを得ないだろう。ただし、今日的な問題を30分枠の、しかもウルトラで書いたことは素直に評価できる。とはいっても、この問題自体もうかなり過去のものだが。
 人質バッシングの深刻化については、映画化もされてようやく認知度が高まった感がある。

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 こちらも、まぁ非常に怖い映画なのだが、主人公がイラクの戦地でボランティアすることに「本当の自分」を見つけるという徹底的に痛いキャラとして描かれていた点が評価の分かれ目だろう。むしろ、この素直に感情移入できないキャラクター造形は冒険的だとは思うが、僕自身は好感が持てた。人質バッシング心理的背景についての見解もまた、ひとそてぞれだとは思うが、やはり「集団の和」を乱すことを極端に嫌う日本人の国民性が大きな影響を及ぼしているのは間違いないだろう。そして「善意」の象徴としての「ボランティア」に対する胡散臭さ。それすらもやっていない自分自身に対する「後ろめたさ」ではないだろうか。映画「バッシング」の中で、主人公は戦地の子供達と一緒に暮らすことで「ようやく自分が必要とされている場所が見つかったと感じた。」という具合に、露骨な「自分探し」精神を吐露する。結局彼女自身の活動の動機は、ボランティア精神という高邁な精神ではなく、単なる「自分探し」という矮小化されたある意味で独りよがりなものだった。このことに対する違和感、しかしながら、そんなことを批判する権利は誰にもない。動機が何であれ、彼女が結果的に善意を実践していることには変わりないのではないかというロジックも成り立つからだ。だから、彼らが人質に取られ、その解放に多額のお金が運用されたと知ると「それ見ろ」と言わんばかりに攻撃する。そう考えると、なんだか小さい人間だなと憂鬱になってしまう。「戦争はいけない」と言う一方で、自らの怠惰と無関心については「自己責任」という呪文を使って正当化する。当時の「人質バッシング」には、そのような矮小な国民性が透けて見えて憂鬱になってしまった。そこには「悪いのは人質ではなくテロリストではないか」という視点はなく、「和」を乱すことに対する断罪だけが問われている。ましてやイラクでの過酷な状況に苦しむ人々に対する気持ちなど皆無といってよかった。一体日本人は何を守りたいのだろうか。
 結局のところ私達は「和」を乱すくらいなら「正義の味方」を必要としていない。現実は「デスレムのたくらみ」の脚本のようにはいかないし、ウルトラマンも登場しない。このような哀しい現実にぶつかってしまう。

*1:余談だが「帰ってきたウルトラマン」の呼称は複数あり統一がなされていない。放映当初は、文字通りウルトラマンが「帰ってきた」という設定であり、つまり、「ウルトラマン」と「帰ってきたウルトラマン」が同一人物であるという構想があったことに起因している。そして長らくこの二つは「初代マン」と「帰マン」「新マン」「帰りマン」という風に呼び分けられていた。後々になって「帰マン」には「ウルトラマンジャック」という名前があることが公式としてアナウンスされるが、抵抗を示すファンも多い。今回「メビウス」では初めて本編中で「ジャック」という呼び名が用いられた。

*2:そういえば日本オタク大賞なんて受賞しちゃったね「ウルトラマン80」。

*3:個人的にリアルタイムで思い入れの深いウルトラ作品となると殆ど太田愛脚本だと言っても過言ではない。ダイナでの「少年宇宙人」「僕達の地球が見たい」、ガイアでの「遠い町・ウクバール」の3作は掛け値なしに平成を代表する傑作だと思う。あと最近だとマックスにおける「クリスマスのエリー」も捨てがたい。