Devil's Own

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ジャック・ドゥミ「ローラ」―初恋に囚われた愚かで愛すべき人々に捧ぐヌーヴェルヴァーグの真珠

撮影は快調ながらも鬱状態や不眠は定期的にやってくる。随分の気が滅入ってしまって、もう一生眠りたいなーと思い睡眠薬を大量に飲んで爆睡。結果、極度の健忘症と髪を染めたり、自分画像アップしたりの奇抜行動という大惨事に至る。まぁいいよね。
 ところで、最近お台場や六本木で開催されていたフランス映画祭に撮影の為に行くことができず、観たかったアニメ作品「ルネッサンス」やミシェル・ゴンドリーの新作はまた次の機会になってしまったが、ユーロスペースジャック・ドゥミ特集だけは、何が何でも行くぞと思っていたので多少血迷っていても足を運ぶだけの理性は残っていた。ニュープリント版「シェルブールの雨傘」は見ることが叶いそうにないので来年のリヴァイヴァル上映を待つことにする。どれも素晴らしかったが、デビュー作「ローラ」をスクリーンで観ることができた喜びは筆舌尽くしがたい。同ビルでのヴェーラで年末年始に特集していた「ヌーヴェルヴァーグはもうすぐ50歳になる」でのコンテンツ中でドゥミの作品は「ロバと王女」のみだったし、第一ドゥミの作品群はゴダールやトリフォーと違ってソフト化が遅れているから、本当に自分にとっては幸福この上ないタイミングだったと思う。パンフレットにはご親切にもシナリオが収録されているし、何もない限りは日仏学院の上映にも行ってしまいそうだ。

 「ローラ」には、他のヌーヴェルヴァーグ作品群のようなアフォリズムやリアリズムはなく、初恋という誰もが経験したことがある胸を掻き毟るようなあの想いへの祝福だけが溢れている。お世話になっているブロガーのがるぼるさん(id:garuboru)が、「ローラ」がジャック・ドゥミの最高傑作どころかヌーヴェル・ヴァーグの最高傑作だと思っていると熱烈な調子でいつか書いていたが、僕もその意見には大いに賛成してしまう。この映画には誰かを恋焦がれるときの胸詰まる切なさや痛みがこれでもかというくらい詰め込まれている。多分僕らにとって結構大切な優しさや、他人をいたわる気持ちはそういった切なさやら痛みやらを原動力に形成されたものだったりする。だから誰もがこの映画を愛おしく思わずにはいられないに違いない。7年間音沙汰のない初恋の人を待ち続けながら、健気に、快活に生きる主人公ローラは、恋に落ちたことのある全ての人々にとっての希望の象徴だ。現実ならばローラの恋は結ばれないだろうし、実際ローラ自身も最後の瞬間まで恋人が戻ってこないことを半ば理解している。最後の最後で恋人が戻ってくるという物語の大団円は、「映画はファンタジーである」というドゥミの映画観に起因するものであって、やはり実際は僕達は簡単にはハッピーになれないだろう。大抵の場合本気で恋したときに限って、人々の想いは空回ったりすれ違ったりするものなのだ。だからこそ、この映画を観た後誰もが胸が張り裂けるような想いに駆られるのだろう。ローラの幸福は、彼女への恋に破れたローラン・カサールの哀しみの上に成り立っているのだし、そんな感情のすれ違いなんて僕らの日常に溢れているのだ。
 しかし「初恋」という言葉の響きが示唆するプラトニックで純粋なイメージは絶大だ。この表現を使った途端、どんなに下らなく取るに足らない思い出もたちどころに特別な意味を持ち、思い出の善し悪しに関わらず誰もが適度に歪曲された思い出と戯れ気軽に感傷にひたることができる。僕だって「ローラ」を観た後、初めて愛した女性のことを思い出したし、勿論他人から観ればそれは気持ち悪いセンチメンタリズムでしかないこともわかっている。この映画を観た後、誰もが好き勝手に恋愛について考えたに違いないが、恐らくみんな気がついているであろうことは、やはり初恋が成就することはないし、一生消えることのないあなたの痛みも他人から観れば喜劇でしかない。だからと言って哀しむことはない。繰り返し言うことになるが、ローラは恋に落ちたことのある全ての人々にとっての希望の象徴なのだ。そして劇中でローラン・カサールが言うように、本当の幸福は幸福を望む気持ちにある。映画の中で恋愛が成就したローラよりも、もしかしたら彼女にフラれて失意のどん底にいるローラン・カサールの方が幸福なのかもしれないのだ。なぜなら彼にはローラという恋焦がれてやまない「希望」があるからだ。希望なんて気持ち悪い言葉を使うと凡庸な感じになってしまうが、心がズタズタになるくらい傷ついた恋愛をしていることはある意味でとても幸福なことなんだと僕は思う。もし僕らがいとも簡単に愛するひとの心を摑むことができたとしたら、そんな幸福にどれだけ価値があるだろうか。いっぱい笑いたいのなら、その分泣かなくちゃいけない。恋に落ちるということはいつだってある種の不幸を伴っているのだ、トマス・マンがトニオ・クレーゲルの口を通じて語ったように愛するものはいつでも敗者なのだから。だから僕らは、「初恋」とかいう自己憐憫偶像崇拝でデフォルメされた面倒な想い出にいつまでたっても悩まされるだろう。それもまた幸福なことじゃないか。