Devil's Own

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劇場型犯罪の退屈さ―サスペンス映画監督が撮った悲劇オムニバス「ゾディアック」

 帰ったら先生からメールが来ていて次回の講義は「気狂いピエロ」やるかもとあって、「気狂いピエロ」なんぞは八阿僧祇回くらい観ているので「えー」っとなるが、でも八阿僧祇一回観てもまた面白いとは思うからいいか。
 「ゾディアック」について色々書く前に「セブン」を見返そうかと思っていたのだが、結局借りられっぱなしなので、まーテキトーな印象論で済ませておこうかと思う。
 いくら実在の事件や登場人物をモチーフにしているとは言え、この映画がフィクションであることに変わりはなく、その意味では同じくゾディアック事件をモチーフとした映画「ダーティハリー」と同列で語られるべき作品である。しかしながら、劇中で「ダーティハリー」を上映するシーンが挿入されるなど、「ゾディアック」はそういった「サイコスリラー映画」に対する差別化に極めて意識的なのではないかと感じた。「ダーティハリー」があるにも関わらず「ゾディアック」が作られた必然性とは一体なんだったのだろうか。
 ヒッチコックなら85分で撮ると某氏が書いていたように、この映画の最大の難点は後半のダレ具合で、しかも映画自体は極めて感情移入しづらいドライなつくりになっているために、観ている側としては苛立ちを禁じえない。しかし、先述した「ダーティハリー」との差別化に関わるこの映画の必然性について考えると、後半のダレもフィンチャーの狙いだと思えてくる。その技量があったかは別にしても、もしフィンチャーが85分でこの映画を面白く纏め上げていたとしたら、この映画の必然性は間違いなく薄いものになっていただろう。それは多分傑作「ダーティーハリー」とあまり変わらない映画だろうから。この劇中で「ダーティハリー」を登場させることからも、フィンチャー自身がそのことに自覚的だったことが伺える。
 この映画で最も印象に残るもののひとつはタクシーを上空から俯瞰で追って行く場面だが、この俯瞰のシーンがオーディエンスの映画に対する距離感を象徴するものだと感じる。このような俯瞰或いは登場人物の様子を冷徹に観察するようなショットは実はこの映画の随所に散見され、このようなシーンを差し挟む事で、オーディエンスはは決して映画の「向こう側」に立ち入ることはなく、映画内世界と我々のいる現実世界の線引きを度々意識させられる。フィンチャーの狙いはゾディアック事件をドラマチックな映画に仕立てることではない。そもそも劇場型犯罪といわれるゾディアック事件はそれこそ度々ドラマチックな語られ方をしてきているし、そのような映画はもう「ダーティ・ハリー」として作られているし劇中にも登場する。フィンチャーの目的はドラマチックな事件を単なる退屈で悲愴な現実として描いてい見せることではなかったのだろうか。
 ただし、フィンチャーはこのゾディアック事件をサントの「エレファント」のようなフェイクドキュメンタリー形式の演出に頼ることなく敢えて映画的マナーで撮っていくことに終始した。ゾディアックキラーによって侵される殺人事件、新聞社に送りつけられる声明文、ゾディアックを追う刑事や新聞記者達の様子ひとつひとつは至ってシンプルなフィクションとして描かれる。しかしながらそのひとつひとつが集積していき、更に肝心なゾディアック・キラー側の視点は欠落したまま物語を時系列に任せて強引に推し進めた結果、突き放されるような違和感が全編で観る者の心に影を落とし、終演後、映画そのものの記憶は極めて不定形で曖昧な形として残る。まるでゾディアック事件そのもののようにだ。 
 なにしろこの映画は登場人物が入れ替わり立ち代りで登場し、その殆どはゾディアックによってあっという間に殺されたり、人生滅茶苦茶にされたりしていて、驚くほど感情移入を喚起しないつくりになっている。表向きの主人公はグレイスミスだが、後半は彼自身が、ゾディアックの真相解明の情熱に、私生活を侵され蝕まれていく様子が淡々と描かれ、そこには一ミリのセンチメントも存在しない。ある意味ではこの映画に登場する全員が「ヤラレ役」なのであり、160分の上映時間の間中ゾディアック主催の劇場型犯罪に身を滅ぼす一般人の姿をただひたすら見せられるとんでもなく悲劇的な映画なのだ。米国最大の「劇場型犯罪」を構成している個々の事実をひとつずつ拾い上げ描いていったとき、いかに散漫で退屈なものかということだ。暴力と犯罪に溢れた世界で生活している僕らの感覚には、もうゾディアック事件は大してドラマチックに映らないのかもしれない。そのことが実は最も怖かったりする。
 でもやっぱり長いな。