Devil's Own

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フランソワ・トリュフォー「夜霧の恋人たち」「恋のエチュード」―恋なんてめんどくさい

 昨日今日はサークルのH君が泊まりにきていたのだが、そういえば昨日今日は代官山でPerfumeのライヴやったんやなぁという話で、セトリのカバーセンスが絶妙すぎて、もう絶対に次はライヴ行くぜーとなる。
 結局、朝起きてPerfumeの動画見まくった後、近くのスーパー銭湯に行き、昼頃登校し、教授の研究室で巻き寿司頂いたりとまぁのんびりした一日だった。
 やはりどうしても「夜霧の恋人たち」がスクリーンで見たくなり、夕方からは渋谷へ出て、トリュフォーを2本。細めジーンズにショルダーバッグのお兄さんを探すも、結構該当しそうな人がいたので、大人しくしていた。幸福なひと時。「恋のエチュード」は随分久しぶりみた。最初に見たときは、フランス人の恋愛ってめんどくせーなと思っていたが、トリュフォーなんて元々めんどくさくてだらしのない恋愛を最高に愛おしく描いてきた監督であり、第一得てして恋愛というものは普通はめんどくさくてだらしのないものなのかもしれない。フランス人だとなぜだが一々気障でカッコ良いわけだが。それから「恋のエチュード」はナレーションが多いのが特徴で、オフの声というのはあまりに頻繁だと物語の演出をぶち壊してしまうものなのだが、フランス語は他の言語に比べて抑揚が少なく、それでいて独特のリズム感覚があるので、耳に障りにくいという利点がある。もしこの映画の言語がフランス語じゃなかったらかなりしんどかったように思う。最近見返して思ったが「気狂いピエロ」の、フェルディナンとマリアンヌによるオフヴォイスなどの演出も言語が違うと成り立たなかったのでないか。「恋のエチュード」におけるナレーションに関しては、全く必然性がないわけでもなく、最終的にこの物語(正確にはこの物語をモチーフにした物語、劇中劇)が出版されるために、作品そのものに叙述的な印象を与える意図も多分にある。こうすることで、物語そのものを二重構造にすることができる。この作品でジャン=ピエール・レオが演じるのはドワネルではないが、やはりレオはトリュフォーオルター・エゴなのだから、トリュフォーにとって自らの経験をモチーフにした映画を作るという行為は、「恋のエチュード」におけるクロードの執筆行為のように何かしら痛みを伴うものであったのかもしれないと、深読みしてみたりする。スクリーンでみると英国の*1山岳風景が格別に美しい。なんにせよ、今日はレオーが出ている映画を2本も見られて幸福だった。
くりいむレモン」のお話はまた明日にでも。
うわー、Perfumeのラジオくっだらねー!!!笑

*1:実際撮影はノルマンディだったんだそうな。