Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

回収される第三世界―ポストグローバリズムとM.I.A.

カラ KALA

カラ KALA

 M.I.A.の新作「KALA」に興奮している。ということは昨日熱狂的な調子で書いたのだが、この作品について書くことが意外と大変なことに気がつく。今年の僕は第三世界論とかレヴィ・ストロースとかちょっと齧ってしまった結果、なんだかポスコロ的な、要するにポーズとしての構造主義者のようなちょっと嫌味な人間になってしまってイヤになる。それでもやはり僕はもう20年間も資本主義社会に飼いならされているという自覚があるので、こういうブログという言説空間(正しく先進国的な!)で、M.I.A.の新作を取り上げて、やれ第三世界がどうだこうだと論じることがいかに無責任な行為であることも理解している。それにしてもM.I.A.の新作はカッコいい。
 M.I.A.に関して結構前に前身のブログに書いた文章を見つけた。ちょっとカゲキな論調ではあるが、折角なのでまずこれを引用しておく。

 女性は色白でおしとやかじゃなきゃ!という世の男性のステレオタイプを木端微塵にデリートする強烈な個性と魅力を兼ね備えたアーティスト、M.I.Aことマヤ・アルプラガサム。スリランカ出身タミル系イギリス人という属性の説明のしづらさが、彼女自身の出自の曖昧な部分を最も端的に表している。昔「GO」という在日朝鮮人の苦悩を題材にした、凡庸で退屈な青春小説があった。*1僕があの小説に嫌悪感を抱いたのは、思春期の人間なら誰もがもつだろう全体への違和感や同調への反抗を「国籍」の相違で安易に説明してしまったところだ。本当に反吐が出る。「国境線なんて俺が消してやる」と叫んでいる本人が自己同一性のために一番国境線を必要としているという痛々しさを感じずにはいられなかったのだ。
 マヤは、武装集団の父親のもと内戦下のスリランカで育ち、イギリスに亡命したという特殊な遍歴について意識的ではあるが、彼女の音楽を聴いても、そういったバックグラウンドにある影は微塵も感じられない。鋭利なビートと訛りの強いフロウは特徴的だが、何よりも祝福に満ちたポジティヴなヴァイヴの方が強い気がする。マヤは、亡命後イギリスで美大に通い、その間に英国のヒップ・ホップやダンスホール・レゲエと急接近。自分でシンセを購入し、トラックメイキングに没頭するようになる。このしたたかさ。これで、彼女の作る音楽が自分の奇妙な遍歴に心酔したエミネムのような音楽を作っていたとしたら、僕は彼女にはさほど惹かれなかったかもしれない。一度聞いたときは、ただその陽性のヴァイヴスに躍らされるような気持ちになり、なおかつ歌詞を読んだら、とても問題意識の強い、かつ前向きなものであったというのが、最大の魅力だったと思う。彼女の音楽をよくクラッシュの諸作になぞらえるメディアがいたが、要するにそういうことだ。現状は厳しく、辛いものであったとしても、楽しむことにフォーカスし、反抗する不屈の闘志というものが、マヤのつくる音楽には確かに宿っている。*2(2006/10/23)

 M.I.A.の音楽を評してのこの意見は今もそう変わっていないのだが、マヤが自らが第三世界の人間であり「アウトサイダー」であることに急にアイデンティファイし始めたことには少し戸惑いを感じずにはいられない。マヤのアティチュードは「楽しむことにフォーカスする」と語っていたファーストアルバムリリース時のように無邪気で無責任(だからこそ自由)ではなく、もっとシリアスな使命感や責任感のようなものを帯び始めている。現在の彼女の感覚は「第三世界の音と遊ぶ」というより「第三世界の音を伝える」ということに重点を置いているように思える。
 勿論政治的なメッセージはデビュー時から一貫として持っていた。しかし、彼女の音楽がサウンドの面からは多くの影響を及ぼしたがメッセージとしての効力を発揮したのかは疑問である。自らの音楽のフォーマットだけが、市場に拡散していった状況に彼女は少なからず歯がゆさを感じているのかもしれない。

「今はポスト・グローバリゼーションって言葉がかっこいいとされてる時代だと思うの。例えば、最近雑誌とかではアフリカのマシンガンを抱えた少年兵とそのファッションを斬新なポートレートとして撮影してたりする。でも、こういった西側の解釈を押し付けられる前に、まずは第三世界の彼らが発信するものは何なのか、どういうものなのかを知ろうとする方が先決よね。そういうことを音楽でやろうとしている人はいないし、今現在では自分しかできない試みなんじゃないかって思ってる。彼らと同じところにいた人間として、ね。それが西に渡って言葉や文化を習得した自分にできる有意義な試みなんじゃないかと思って……」

 以上はマヤの発言だそう。ファーストアルバムリリース後、スーツケース一つで各地を旅して回ったマヤにしてみれば、第三世界のカルチャーがファッションとして、先進国の中に回収されていく現状は違和感があるのかもしれない。しかしながら、資本主義という安全圏の中でずっと暮らし続けている僕らは、マヤの嫌うポスト・グローバリゼーションのタームでしか彼女の音楽を語れないのも事実である。この辺に関しては、id:shuh_mizukamiさんのこのエントリ(id:shuh_mizukami:20070808)がとても適切でわかりやすい。
 上海を訪れたときに痛感したが、自らの出自や文化的背景、イデオロギーをひきづったまま異文化について考えるのはとても難しい。先進国のスタンスで語る限りの第三世界論は例によってポストコロニアリズムに帰結したりするのがせいぜいで、要するに好奇の対象でしかない。第三世界のカルチャーを理解しようとすることは、第三世界のカルチャーで満足することと等値にはならない。「先進国→第三世界」の構図は実はそのまま「東京→地方」の関係へと置換できるので、東京の人は「天然コケッコー」を見て「田舎でのんびりしたいねー」とか呑気に言っているのが大半だ。そして東京に住む僕のような地方出身者は「東京の人は冷たいから・・」とか言って、でもやっぱり東京を享受している。両者には絶対的な隔絶がある。先述のエントリで述べられているが、アウトサイダーとしての立場を表明したM.I.A.の音楽がそういった隔絶の橋渡しになっているのかと言われれば多分そういうわけでもなく、やはりこのアルバムはちょっとヘンな(だからこそカッコいい)ポップミュージックなのだ。
 M.I.A.がいくらNONを主張したとしても、彼女の音楽は再び「カッコいいもの」として僕らのポップカルチャーに回収され拡散していき、ある程度ソフィスケイトされた後、オリエンタル系の「お洒落」で「カッコいい」お店のBGMへと変質していくのかもしれない。それはとても哀しいことなのだけれど、残念ながら僕らの全てがそういったシステムを支えている。ただし、だからといって「楽しむことにフォーカスする」という彼女の原初的なアティチュードが間違っているとは思わない。M.I.A.の新作は、やはり有無を言わさずカッコいいのだ。だから僕らは相も変わらずポップミュージックではあるが、素直に彼女の新作で踊っていいんだと思う。
 ところで、昨日も言及したがアルバム終盤に収録された曲「Paper Plane」は、そういった第三世界の住人としてのマヤのステートメントを明確に表明する掛け値なしの傑作だ。ライフルの発射音や装填音をサンプリングしたトラックに乗せて子ども達と一緒に歌うラインは「私が本当にしたいのは(銃声)そしてあんたのお金を奪う」という過酷なもので、ラストには「This Is M.I.A. A 3rd World democracy」と高らかに宣言する。ティンバランドとのコラボレーショントラックを除けばこの曲が事実上の最終曲であり、彼女の覚悟や責任が感じられる。それでもこの曲の素晴らしいところは子ども達のコーラスや伸び伸びとしたマヤのフロウなど、とてもピースフルで楽しい楽曲でもあるということだ。自らを紙飛行機になぞらえるマヤは相変わらず自由だし、その境遇を楽しんでいる。全ては風任せ。冒頭で断ったように、彼女の音楽を聴いて踊ったり語ったりする行為にしてもやはり無責任そのものなのだ。だけれどそういった行為の面白さや愉しさを教えてくれたのもまたM.I.A.だったりする。

*1:

GO (講談社文庫)

GO (講談社文庫)

*2:

Arular

Arular