Devil's Own

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「ウルトラマンA」論

<序章>はじめに
 以下の文章は、1973年3月30日までの一年間、全52話が制作・放映された特撮ドラマ「ウルトラマンA」(以下「エース」)についての個人的な雑感である。個人的な雑感とは書いたが、ブログという不特定多数の視線に晒すからには、それなりの必然性のようなものを留意しつつ書きたいという思いもある。僕が歯痒く感じているのは、様々なカルチャーの批評に際してよくわからない棲み分けが出来てしまっている現状である。要するにシネフィルは特撮を受け入れないし、特ヲタは映画をあまり観ていない。両者の批評活動の領域には大きな断絶が存在している。僕はどちらについても至らない知識しか持ち合わせていないが、せっかくなので、両者のフィールドをクロスオーヴァーできるような批評を心がけたいと思う。思い切って言ってしまうが、第2期ウルトラシリーズの作品群は、小津安二郎でも鈴木清順でも中川信夫*1でも市川昆でも藤田敏八でも、なんでもいいが、あらゆる「映画的」な文脈で語ることが出来る。そのくらい第二期ウルトラにおける映像センスとドラマツルギーは豊穣なものだ。ともすれば世間からあまりに低い評価を受けているウルトラシリーズの、その中でも更にまた過小評価されているのが、第2期ウルトラシリーズの作品群だ。*2 その背景には先ほども言及したシネフィルと特ヲタの評価領域の断絶によるところが大きいのではないだろうか。そして、特ヲタですらジュブナイルを馬鹿にしているという現状。曰く、実相寺昭雄が演出したハード志向の「ウルトラセブン」は「高尚」で観賞に耐えうるが、子ども向けに制作された第二期ウルトラの「僕にも怪獣を退治できる!」のような「低俗」で「幼稚」な作品は文字通り「僕にも書ける」というあまりに根拠のない過小評価だ。このブログで再三言っていることではあるが、ジュブナイルやポルノが映像のテクニックにおいて劣っているという言説はやはり正当ではないのだ。だから今日は、一応は論文の体裁をとり、ある程度論理的な枠組みで書こうという努力はしていくつもりだ。

「優しさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。 
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと・・・
それが、私の最後の願いだ」
第52話「明日のエースは君だ!」脚本:市川森一

 それからもうひとつ、「エース」という作品について考えるときに、僕にとって忘れてはならない要素があって。先に引用した言葉がそれである。これは最終話のラストシーンにおいてウルトラマンAの口から地球の子ども達に送られた有名な科白なのだが、これが今でも僕にとって大切なものであるし、そこに込められたメッセージには、ジュブナイルだからこそ目指すことの出来る正義や善意への純粋な思いを見ることが出来る。30年以上前に制作され、当然このメッセージも当時の子ども達に向けられたものであるが、その子ども達世代の子どもとして数十年後に産まれた幼い僕の心に響き、確かに刻まれているのだから、やはりこのメッセージはジェネレーションを越えた普遍的な何かを有しているのだと思う。「エース」という特撮ドラマの持つ特質や作劇におけるドラマツルギーからのアプローチからこうした普遍的正義の検証も行っていこうと思う。色々と偉そうなことをいってはいるが、「エース」という番組が「子ども番組」であり、「ヒーロー番組」であるという大前提を忘れてはいけないと思うからだ。
そういった姿勢を心がけつつ「エース」の考察を自分なりに書いていこうと思うが、その前に、「エース」という作品の特異性についても少し述べておかなくてはならない。「エース」が放映された当時は、特撮番組というマーケットがひとつのピークを迎えていた時代だった。多くの制作プロダクションが次々と巨大ヒーローや等身大ヒーロー、怪獣、怪人を扱った特撮ヒーローを量産しており、「仮面ライダー」(‘71~’73)、「ミラーマン」(‘71~72)「シルバー仮面」(‘71~72)「人造人間キカイダー」(‘72~’73)など「エース」放映と同時期に放映されたと特撮ドラマは、実に10本以上にも及ぶ。「ウルトラシリーズ」は当時既に特撮ヒーロー番組のパイオニアとしての地位を築いていたが、子ども達の純粋で残酷な好奇心に委ねられる視聴率競争は苛烈を極めた。事実、そのような動きの中でわずか数話の放送を持って制作が打ち切られた特撮番組も多いという。そんな過酷な時代背景の中、「エース」は一年間という放映期間をなんとか続け、翌年の「ウルトラマンタロウ」にまで繋げることが出来た。しかしながら、その長いマラソンは決して平坦なものではなかった。「エース」には放映当初、今もって他のシリーズとは一線を画した奇抜で斬新なアイデアと設定が多数盛り込まれていた。こうした設定の多くが、厳しい競争に勝ち抜くため、「エース」を他の類似番組と差別化するためのセールスポイントとして意欲的に取り入れられた新機軸であったが、ひとたび、それがシリーズ続行に際して不要もしくは余分と判断された場合にはストーリーの方向性や一貫性とは無関係に容赦なく切り捨てられた。こうした路線変更は、当時の特撮ドラマとしてはさして珍しいことでもないし、今日でも行われることがあるが、「エース」には特にこの種の路線変更が多い。多くの新機軸を有してひときわ異彩を放つ番組としてスタートした「エース」ではあったが、番組後半ではそうした新機軸の要となる設定やキャラクターの殆どが消滅・退場してしまい、最終的には「超獣」という名称のみが形骸化して残存する程度となった。野心作としての「エース」は市場の論理によって、従来のスタンダードなウルトラシリーズの文脈に取り込まれていったといっていいだろう。大前提としてあるいくつかの新機軸を簡単にレジュメすると以下にまとめることができる。
 1・男女合体変身
 2・レギュラーとしての敵キャラ「ヤプール人」と超獣の存在
 3・ウルトラファミリーの導入
 こうした新機軸は、途中で消えていったり後々に影響を及ぼしたり様々な形で「エース」という作品を彩り、盛り上げた。個性であり、大きな魅力でもあるこれらの要素が意図したものの読み取りや、作劇におけるメリット・デメリットの考察を中心として、「エース」という作品の輪郭を捉えていくことで進めていくことにしようと思う。
それでは始めよう。ウルトラタッチ!

<第一章>合体変身の所産とキャラクターとしての「南夕子」考
1・ジェンダーフリー挫折と「人格」概念の変遷

ウルトラマンAにおいて設定された男女合体変身はそれまでのヒーロー番組においてほとんど例のない新機軸であり、メインライターの市川森一が原案において当初から設定していたことからも、ウルトラマンAのテーマの軸をなす設定であったといえる。前半のいくつかの話ではこの設定が生かされたエピソードも挿入されていたが、いくつかの要因により、南夕子の設定を生かし切ることが難しくなってきた。「男女合体変身だとヒーローとして弱々しい」「合体変身を子供がまねることが難しい」等の番組の評判としての意見もさることながら、ストーリーを展開する上で、北斗と南のドラマをそれぞれ語る必要があるなど、脚本側の要求があったとも言われている。最終的に第28話をもって南夕子は「ヒーロー番組」から退場することとなった。
フリー百科事典ウィキペディア:ウルトラマンA

 「男女合体変身」。これこそが、ウルトラマンA最大のラジカリズムであり、逆に言えば他のヒーローとキャラクターとしてのウルトラマンAを差別化する最大のアイデンティティーだった。合体変身というアイデア自体は、同時期に放映された「超人バロム1」などで見ることができるが、やはり北斗星司と南夕子という若い男女が合体変身するというジャンダー・セックスなどのあらゆる性概念を超越した存在としてのウルトラマンA のコンセプトは現在においても異彩を放っている。そもそも、「特撮ドラマ」という封建的な「男社会」に「女性」が登場するということ自体が画期的だった。この設定は、作劇の上でいくつかの功を奏し、現在では「エース」の大きな魅力のひとつとなっているが、やはり当時このコンセプトを子ども達に理解してもらうのは難しかった。二人の人間が一人のヒーローとして現れるということ自体が非常に抽象的である上に、片方が女性であるというのは時代に対して先駆的過ぎたというべきだろう。「エース」は特撮ドラマにおける早過ぎたジェンダーフリーだったのだ。上記のも説明されるように、南夕子役の星光子降板を持って、合体変身の設定は消滅し、以後北斗星司が一人でウルトラマンAに変身するという方策が採られる。南夕子が実は月の人間であり、自分達の文明を滅ぼした超獣ルナチクスに復讐するために地球へ来ていたという展開はあまりに唐突で強引ではあるが、それだけ現場が切迫していたということの現れかもしれない。もっとも、南夕子降板の理由は、プロデューサー側の路線変更によるものだとする向きはあくまで一般論である。星光子本人は、「エース」DVD化に際してのインタビューでは、自身の個人的な意志によるものだと述懐する一方で、自身のブログでは「やめる気など全くなかった」と証言しており、矛盾しているために真相のほどは定かではない。
 いずれにしても合体変身というコンセプトは、キャラクターとしてのウルトラマンAを性別という概念では語ることの出来ない超越的存在として神格化させた。
 この点に関して、ひとつの疑問について言及する必要がある。ウルトラマンに変身しているとき変身前の人間の意識はどうなっているのか?という疑問である。ウルトラマンの人格についての問題は、実は他のヒーローキャラクターよりもずっと曖昧で理解が難しい。ウルトラマンの変身というプロセスは実は2パターン存在していて、一つはウルトラセブンウルトラマンレオのように、ウルトラマンが宇宙人としての能力を用いて人間体に変身しているというもの。もうひとつは、ウルトラマンが地球人の肉体に憑依することで、地球人がウルトラマンの変身能力を持つというものだ。前者の場合は理解がしやすいが、後者の場合ウルトラマンと憑依された地球人の人格は別のものなのかという疑問が生じてくる。初代ウルトラマンが、自らの過失で命を奪ってしまった青年ハヤタに自分の命を授けることで、地球に留まったという話は結構有名だが、ウルトラマンがハヤタと分離した後、ハヤタが、ウルトラマンとして生活してきた記憶の一切を失っていたという事実を知っている人間は結構少ない。この場合、ウルトラマンがハヤタに憑依してから、分離するまでの期間、ハヤタはハヤタの姿をしたウルトラマンだったのではないか?という可能性が出てくるが、人格は最初から乖離していたと理解できる。しかし、その後「帰ってきたウルトラマン」では同じく新ウルトラマンが地球人の青年郷秀樹に憑依するが、更にふたつの人格の境界が曖昧となり、不可分のものとなる。最終的に、ウルトラマンは郷秀樹と分離することのないまま宇宙へ帰っていった。変身後のウルトラマンが郷秀樹と意識を共有している描写も見られ、こうした表現は「人間ウルトラマン」の先駆けともなったといえよう。しかし同じような憑依のプロセスを踏襲したウルトラマンエースでは、合体変身の導入により人格の理解は複雑化してしまう。というより「帰ってきたウルトラマン」において一度は同質化したウルトラマンと人間というふたつの意識が、再び乖離した印象を受ける。前述したウルトラマンの神格化というのは、こういう意味である。合体変身というアイデアを出した初期メインライターの市川森一も、ウルトラマンの神格化する狙いに当初から意識的だったようだ。さらにウルトラマンA は、第一期ウルトラで美術を担当した天才・成田亨の手を離れてデザインされた初のウルトラマンだが、そのデザインモチーフは観音像であり、アンドロジニーとしてのエースのアイデンティティーを色濃く反映したものとなっている。成田がウルトラマンをデザインする際に口元のアルカイックスマイルなどの仏教美術を参照したことや、「ウルトラマン」第5話「バラージの青い石」ではウルトラマンに似た神像を崇め奉る民族が描かれるなど、ウルトラマンは当初から神聖な存在として描写されていた。男女合体変身の導入により、ウルトラマンは再び神格へと回帰したと見ることが出来るだろう。
 しかしながら、夕子降板後、北斗の単独変身によりキャラクターとしてのエースは人格へUターンした。最終回においては、変身後のウルトラマンAが北斗の声で独白するという描写まで見られる。(先述の科白とは別)もっとも、ウルトラマンが人格化することはウルトラ兄弟*3 の設定やウルトラの父などの登場による「家族」の概念が導入された時点で必然といえたのかも知れない。男女合体変身によってウルトラマンを神格化する一方で、我々の身近な感覚として理解できる「家族」の要素を描くことで人間臭いウルトラマンの描写*4 も行わていることが、本来アンバランスを生んでいたのだ。ウルトラマンの「家族化」は、超越的存在としてのウルトラマン矮小化するものとして批判を呼んだが、結局「エース」で盛り込まれた新機軸の中で唯一成功したものといえるだろう。この試みは次作「ウルトラマンタロウ」へと継承され、更なる広がりを見せたのだから。

2・作劇における「南夕子」の存在
 設定が途中で取捨されたからといって、合体変身の試みや南夕子の存在が失敗であったというわけではない。今日的な目で見れば、やはり南夕子や合体変身の要素は「エース」のアイデンティティーであり、大きな美点であると思う。二人それぞれにドラマを用意し、二人揃わなくては変身できないという前提は作劇において大きな難点であり、デメリットでもあったが、自分達がウルトラマンAであるという重要な秘密と使命を共有することで結び付けられた男女のドラマが秀逸なエピソードを生むことも沢山あった。今回、CSでの再放送で一気に視聴してみてそうした要素が功を奏した例のひとつが、第11話「超獣は10人の女?」(脚本:上原正三、監督:平野一夫)である。サブタイトル通り本話では、超獣ユニタングが10人の女子大生に変身している。北斗は、彼女達に不信感を抱き意気投合したと見せかけて調査を行うが、証拠をつかむと同時にユニタングに操られてしまう。一方夕子は、北斗が本当に女子大生と意気投合して仕事をサボっているのだと馬鹿にする隊員達の中ただ一人北斗を信じて連絡を待つ。このシーンは運命共同体である二人の連帯感や絆を思わせて非常に感動的だし、このようなドラマは合体変身という前提なくしては成しえないものである。そして特筆すべき点は、夕子が北斗に対して少なからず恋心を抱いているのでは?と連想させる描写(具体的には本編冒頭で女子大生と交通事故(実はこれも超獣の罠であるが)に遭った際に、真っ先に夕子の身体を気遣う北斗を回想するシーンや、その直後確信に満ちた表情で「信じてるわ」と呟くシーン。)) がなされていることであり、だからこそその後、超獣に操られた北斗が夕子に対して辛辣な言葉を吐く展開の残酷さや、それでも北斗を信じて果敢に超獣に立ち向かう夕子の切迫感が際立ち大いに盛り上がるのである。大切なパートナーを救おうとするのが、女性であるというのがミソで、バイクにのって10人の女(=超獣)を追う夕子の姿がとにかくカッコいい。そして第10話のストーリーには、直情的で行動力のある北斗を理性的な態度をもってフォローする夕子という関係をみることができる。合体変身の導入で強調されていたのが、エースに変身する2人の男女が互いの欠点を補完しあう関係性である。第10話の展開はそういした二人のキャラクター設定と関係性を上手く活かした例だと言え、更に普段は冷静沈着な夕子が北斗を助けるために行動力を発揮するというパターン破りは実に効果的で燃える!また先ほど言及した北斗に密かに想いを寄せる夕子、という描写もこの後も度々見ることが出来る。ただ、夕子の北斗に対する「想い」は、非常に微妙で不明確だ。視聴者である子どもならば、彼女の言動から恋愛感情を見出すことは難しいかもしれない。前作の「帰ってきたウルトラマン」では登場人物のアキやルミ子の郷への恋愛感情は、子どもにでも「わかり易い」形で表現されていたが、夕子の場合そうした「わかり易さ」は見られない。それどころか、本編中において二人の関係の深さが強調される描写は希薄で、ドライな印象のほうが強い。にもかかわらず、さりげないエピソードや表情のひとつひとつの積み重ねは、彼女の北斗に対する「特別な想い」*5を強く印象付けている。市川森一が一度筆を置く直前の脚本である第14話「銀河に散った5つの星」(脚本:市川森一、監督:吉野安雄)のラストシーンは、夕子が二人の関係についての疑問を呈しており興味深い。この場面では、宇宙を又に架けた激しい戦いを終えた二人が七夕の星空を眺めながら織姫と彦星のロマンチックな七夕伝説に想いを馳せているのだが、「織姫と彦星は恋人同士なの?」という夕子の質問*6 に北斗が軽い肯定の返事をした後で、「あたしたちは一体何なのかしら?」 と呟くというものだ。それに対して北斗は、嬉しそうに星空を眺めるだけで明確な返事をしない。夕子は、その横顔をじっと見つめるのみ。二人の間にある機微を饒舌に物語る秀逸なラストシーンである。確かに、ウルトラマンエースによって唐突に「大いなる力」を与えられ、運命共同体となった二人の関係を定義づけるのはとても難しい。二人はエースと融合する直前に、一瞬顔を合わせたのみで全く面識がないからである。辰巳出版からリリースされているムック本「僕らのウルトラマンA」において山田歩は、北斗と夕子の微妙な関係性や距離感を「恋人」や「友人」ではなく「夫婦」に近いものではないのかと評しているが、(p18)いずれにしても把握しづらく、だからこそ魅力的な関係であった。

3・別離が意味するもの―「神格」としての夕子、「人格」としての北斗
 合体変身というモチーフは確かに急進的で子どもにとっても理解が難しく、先述したように合体変身だからこそ描ける魅力的な演出も沢山あるのだが、ウィキペディアで触れられているようなデメリットも当然多かったことは容易に想像できる。脚本において、合体変身という設定が効果的に用いられた、第10話のような成功例はむしろ少ないほうで、どちらか一人にドラマの焦点を絞って描くことで片方の存在感が極端に薄くなってしまうか、または始終二人が行動を共にした場合にはどちらの描写も中途半端になってしまうかして、結果として双方が没個性へ陥ってしまうような話もあった。両者の個性や合体変身の美質を活かしながら特撮ドラマを描くのはやはり難しかったのだ。そうして試行錯誤を繰り返すうちに、理由はともあれ南夕子は月に帰ることとなる。唐突過ぎる夕子の退場は、ウルトラの父が登場し*7番組が大きな盛り上がりを見せた直後の第28話で描かれる。当該エピソードにあたる「さようなら夕子よ、月の妹よ」(脚本:石堂淑朗、監督:山際永三)は、シリーズ全体の流れで見ると勿論ちぐはぐな印象があるが、単独で見るとドラマとバトルが実に見事に調和した好編である。冒頭ではドビュッシーの名曲「月の光」が挿入され、美しい満月に酔うTAC達の姿が静かに描かれる。「男の人ってみんなロマンチックなのね」という科白に象徴されるリアリストとしての夕子のキャラ作りにも余念がない。こういった演出を重ねてきたからこそ、ルナチクスが登場した後の、夕子の焦燥と執念を見るものに強く訴えかけた。そして6分以上にも及ぶエースと超獣ルナチクスの攻防戦は、地底での前半戦と地上での後半戦にCMを挟むという異色の構成がとられており実にスリリング。そしてその後、夕子の退場劇においては再び幻想的なムードへと帰っていく。全編息もつかせぬ展開で、一話でよくここまで詰め込んだものだと感心せざるをえない。超獣ルナチクスも兎という突飛なモチーフを生かした秀逸なキャラクターで、「月」というキーワードへのこだわりが随所に垣間見られるのもいい。第一期ウルトラにおけるシリーズの一貫性や整合性ばかりを重要視した原理主義的なファン層による否定的な見解が多かった「エース」を、再評価する上で欠かすことの出来ない佳作である。
性概念を凌駕したことにより再び「神格」へと回帰したウルトラマンが、北斗と夕子の分離によって再び「人格」へと引き戻されたということは先ほど述べてきた。北斗と夕子の分離は、エースの中での「人格」と「神格」が分離だったのかもしれない。28話後半以降の夕子は不思議な力を持つ超越者であり、僕らと同じ立場に立つ人間では決してない。そのモデルは言うまでもなく古来の伝承民話「竹取物語」のかぐや姫であるが、以降夕子はウルトラの父と同じサイズで登場していることからも夕子は単独で(神格としての)ウルトラマンとなってしまったと見るべきだろう。一方残されたウルトラマンAは北斗との同質化を急速に進め、ついには北斗と同化することで「人格」を得た。第28話のラストで、月に向かって帰っていく夕子を見送るために北斗は初めて単独で変身する。天女のように空を泳ぐ夕子を優しく見送るエースの姿は、やはり紛れもなく北斗であったし、だからこそこのラストシーンは全28話で挫折してしまった合体変身エースの最終回として大いに盛り上がる。僕は幼い頃、あまりに唐突なこの退場劇を見てショックを受けたが、今ではこのエピソードがあったからこそ北斗と夕子、二人の若者の青春物語としてある程度の結実が見られたように思う。そして、その後北斗一人になってしまったからこそ、いずれも後期の傑作であり、市川森一のペンによる第48話と最終話の恐ろしさが痛烈なものとなった。この2話についてはヤプール論にて後述する。
 単独変身を続けた北斗は最終話ではそのままウルトラマンAとして宇宙に帰ってしまう。だが決して、夕子の存在が「なかったこと」になっていた訳ではなく、最終話での重要な局面で北斗が夕子の声を聞く場面が見られるし、「ウルトラマンタロウ」においても夕子が単独でゲスト出演することはあった。*8 しかし、あまりに唐突な別離を経験した二人は長らく再会することがなかった。まるで織姫と彦星のように、である。しかしながら、二人は「ウルトラマンメビウス」第44話「エースの願い」(脚本:長谷川圭一、監督:小原直樹)において、実に30年ぶりの再会を果たす。このエピソードには、ヤプールも、ルナチクスも、最終回でのあの科白も登場するわけだから実質「エース」の第53話といっても差し支えないかもしれない。この話は、長い間、織姫と彦星の物語に北斗と夕子を見立て、再会を夢想してきたファンに対するスタッフ側の素敵な贈り物だったと思う。あまりにも感動したので、余談ではあるが付記しておく。

<第3章>複合的・多重的「悪魔」・異次元人ヤプール
1・ニュータイプの敵

ウルトラシリーズとしては初の「番組を通しての悪役」であり、テーマ曲の歌詞にまで登場する。異次元に生息している知的生命体で、超獣を使って地球侵略を目論んだ。地球の生物と宇宙怪獣を合成・改造する「超獣製造機」によって超獣を製造し、地球に送り込んでいた。また、配下にはギロン人やマザロン人など、多くの宇宙人や異次元人を従えていた。
フリー百科事典ウィキペディア:ヤプール人

 ウルトラシリーズでは毎回違った怪獣・宇宙人といった所謂「敵キャラ」が登場する。同じキャラクターの再登場などはあったが、それぞれが相互に関係性を持つことは少なく、いわば一話限りの存在として独立していた。しかしながら、「エース」では第一話から、毎週ウルトラマンA に戦いを挑んでくる「敵キャラ」の存在がレギュラーとして設定された。それが、異次元人ヤプールである。ヤプールは我々には見ることも触れることもできない異次元界に棲息し我々の住む地球の侵略を虎視眈々と狙っている。特撮ヒーローでの「敵キャラ」の組織化や首謀格の存在は、同時期放映の「仮面ライダー」におけるショッカーを筆頭に、多く見られ、比較的ポピュラーなものではあるが、ウルトラシリーズにおいては初めてのことであった。ヤプールは得体の知れないヴィジュアルと存在感で今もって謎めいた、だからこそ魅惑的なキャラクターではあったが、第24話を持って事実上全滅してしまう。その後、エースへの復讐という意味合いを強めた侵略手段を用いて生き残りが数回登場するが、毎週のように登場し、生物兵器を送り込んでくる「ボスキャラ」としてのヤプールは、やはりこのとき消滅したといっていい。。
 ヤプールについての考察に入る前に超獣についても説明しなくてはならないだろう。ここでもウィキペディアの記述を併記しておこう。

それまでのウルトラシリーズでは「怪獣」が主な敵役であったのに対し、この番組に登場する敵は「超獣」(Terrible-monster "怪獣を超えるもの"という意味)と呼ばれる。超獣が怪獣より強力である事を示す為の演出として、第7話「怪獣対超獣対宇宙人」では、"超獣"ドラゴリーが、前作にも登場した"怪獣"ムルチを惨殺するという展開が織り込まれている。当初は異次元人ヤプールが地球上の生物と宇宙怪獣を超獣製造機(Terrible-mixer)で融合させて作った合成生物という位置づけであったが、シリーズ途中でヤプール軍が全滅したことによりヤプールとは関係がないと推測される「超獣」が出始めたため、超獣という語の定義は次第に不明確になってしまった。
フリー百科事典ウィキペディア:ウルトラマンA

前述のヤプールが地球侵略の尖兵として毎週のように送り込んでくる生物兵器が「怪獣を超える怪獣」=「超獣」である。多くの超獣は、ヤプール宇宙生物同士の掛け合わせや生体改造によって作り出したものであり、始めから戦闘要員として存在しているために善良であるということは有り得ない。そのヴィジュアルも、恐竜や実在の生物をデザインモチーフに作られたそれまでの怪獣達とは違った色彩とフォルムを持つ非常に秀逸なものが多かった。前述第24話で、ヤプールが断末魔に残した「ヤプール死すとも超獣死なず」という言葉通り、超獣自体はヤプール消滅後も毎週登場し、最終話まで生き残る数少ない存在となった。しかしながら、先ほど説明した「怪獣を超える怪獣」としてのコンセプトが貫徹されたとはいいがたく、デザインにおけるクオリティーも全編で保たれていたわけではない。むしろ、後期の超獣達はそれまでの怪獣と差別化しづらく、超獣の概念自体は形骸化していった印象がある。ベロクロン、バキシム、ブロッケンといった最初期の超獣たちがデザイン・造形ともにあまりに水準が高いというのもあるが、やはり超獣と名乗るからには怪獣とは明らかに違う何かが欲しかった。当初、「怪獣を超える」という意気込みと期待を持って出現した超獣は、「ウルトラマンタロウ」第1話*9しかも、超獣オイルドリンカーは怪獣であるアストロモンスに丸呑みにされるという悲劇的な最期を遂げる。「敵キャラ」としての怪獣が復権を果たした瞬間であり、超獣の本当の「死」の瞬間であった。

2・「異次元」という彼岸
 コンセプトとして優れていた点は、ヤプールが潜んでいる異次元という世界観である。ヤプールの登場によって「エース」は、比較的日常的風景に密着していた前作「帰ってきたウルトラマン」よりもSF的要素を濃くしたといえるが、そもそも異次元とはなんなのか?誰も見たことがなく、その存在すら証明することの出来ない異次元という世界観を、どのように理解し、表現するかが、ヤプールのキャラクター造形の上で重要な部分を占めていたと言っても良いだろう。異次元というのは僕らが住んでいる世界が「縦」「横」「高さ」という三つの要素から成り立つ三次元界だと理解した上で、そこに更にいくつかの要素を掛け合わせた場合に成り立つ理論上の概念である。ポピュラーなものだと、例えば「三次元」に時間軸を掛け合わせた世界を四次元と呼び、人間の脳内におけるし思考活動などは典型的な四次元界だということができるが、あくまで空想での世界であり、これに対する厳密な理論解釈は一般人の、特に主要ターゲットである子どものキャパシティーを越えている。しかしながら、「エース」は異次元という世界観への説明を十分にクリアしていたと思える。僕自身も、小さい時分ながら「エース」を見て、異次元の世界を自分なりに理解していた。それは「エース」が異次元というコンセプトをロジックではなくヴィジュアルだけで見事に説明していたからである。エースにおける異次元の描写を評して田島淑樹は『例えば異次元とは何かと問われたとき、「縦×横×高さ×時間=四次元」という公式を持ち出す前に、「それは“この世”に対する“あの世”である」とでも答えるような―日本人とは、損な感覚が似合う民族なのである。』*10と説明しているが、正しく「エース」における異次元はこちら側の常識の範疇を超越した彼岸であり、そうした感覚的な理解に訴えかける映像表現における工夫が「エース」では多く見られる。例えば、ヤプールはエースとの最終決戦において具現化するまで*11ははっきりとした姿を見せない。ソラリゼーションや反転などによるエフェクトをかけた映像世界の中でクークラックスクランの構成員に酷似した「何ものか」が蠢いている。ディテイルはわからないが、確実に「何ものか」がいると思わせる映像。これだけで見るものにそこが「あちら側」だと理解させる。決して姿を見せない点も得体の知れない存在としてのヤプールの恐ろしさに、大きな説得力を与える。もうひとつ優れていたのは、ヤプールの潜む異次元という「向こう側」と僕らが住んでいる「こちら側」がいつのまにか繋がってしまうかも、という想像である。円谷プロによるウルトラシリーズ第1作目「ウルトラQ」では、冒頭で視聴者の心がテレビの中のアンバランスゾーンに入っていくことを促すナレーションを挿入することで異世界に入り込む恐怖や興奮を演出していた。同シリーズでは最終電車がいつの間にか異世界へ繋がってしまう物語「あけてくれ!」*12のように、何気ない日常のバランスが崩れて、唐突にアンバランスゾーンへ迷い込んでしまうといったテーマを持つストーリーが多い。「アンバランスゾーン」は、「エース」における「異次元」のオリジンであったと言えるかもしれない。超獣が登場する際に幾度か用いられた空が割れるという演出や、メビウスの輪を用いた異次元界突破の説明などは、そうした発想が優れた映像センスとして結実し、ひとつの頂点を見た例だろう。

3・シナリオライターによるヤプールの解釈
 ヤプールというキャラクターは実体もなく広義の解釈を可能とする存在であったため、シナリオによってもその性格・目的が様々であり、結果他のヒーロー番組には類を見ないほどの分裂的な性質を持った悪役として完成した。そして僕の中で、「エース」の魅力の大半がヤプールの存在に依拠するものである。僕だけではなく、恐らく、多くのエースファンが、ヤプールが有する「悪」としての性質に惹かれているのではないだろうか。僕達の誰もが、悪徳に惹かれるのは、時として、理想論や能書きに堕して形骸かしてしまう美徳や正義よりも、悪徳の方がリアリティーを持つからかもしれない。嫉妬、欲望、憎悪、悲しみ、怒り―悪徳というものは、僕達にとって実はとても身近なものなのである。ヤプールは、時として、そうした観念的悪徳をリプレゼントし、僕らに突きつけてくる存在として強烈な個性と説得力を持っていた。「人間を滅ぼすのは人間だ」という科白*13が象徴するように、ヤプールは僕らが日常的に心の中に密かに巣食い、飼いならしている悪意の体現であり、超獣とはそうした悪意が肥大化した結果のカラミティ(災害)なのである。
 メインライターの市川森一は、聖書における神と悪魔の闘争史に着想を得て、ヤプールの創作を行ったという。このことを鑑みれば、エースが性概念を超越した存在として創られたことも納得が出来るが、先ほど異次元の解釈を筆頭に実際に造形されたヤプール像はそこに更に仏教的な世界観が含有されていうるように思う。神と悪魔の闘争は、人間の心の中にある善(理性)と悪(煩悩)の終わる事のない闘争である。市川が描くヤプールは、地球を侵略するインベーダーではなく、人間を教唆し悪徳を引き出す「悪魔」のような存在であった。市川のこのような解釈が顕著に現れているのが、第4話「三億年超獣復活!」である。このエピソードに登場する超獣ガランを直接操っているのはヤプールではない。TACの美川のり子隊員に執着する怪奇漫画家・久里虫太郎の「底知れぬ欲望の力」に目を付けたヤプールは、久里に様々な超能力を与え、「人間を滅ぼすのは人間自身だ」と嘲弄しながら直接手を下さずに暗躍する。ヤプールの策謀は、久里を誘惑する「悪魔の囁き」でしかなく、実際に超獣を操るエネルギーとなっているのは久里自身の狂気と欲望である。市川が描くヤプール像が一線を画しているのは、ヤプールをインベーダーとしてではなく、僕ら自身の良心に挑戦してくるメフィストフェレスとしての性格を持っている点である。ヤプールは正に、人間の良心に挑戦してきたのであり、「人間を滅ぼすのは人間自身だ」とするのもそういった理由のである。ここで想起されるのはメフィストフェレスをモデルにしたキャラクターであるメフィラス星人*14である。メフィラス星人は、人間の心に挑戦し、非暴力を以って地球を我が物にしようと画策し、地球人の少年に「地球を譲り渡す」許可を迫る。しかし、少年は首を縦に振ろうとせず、決然とした態度に苛立ったメフィラス星人は最終的にはウルトラマンと一線を交え、再び人間の心に挑戦しにくると言い残し、地球を去る。ヤプールと久里の契約関係は、このエピソードでメフィラス星人が少年に進言したものと同質のものと言える。市川のペンによる第4話は、試行錯誤が繰り返されていたヤプール像が、人間の持つ「悪意」と結びつき強烈な個性を持つ「悪魔」として出現した記念碑的作品だ。
前述の「僕らのウルトラマンA」におけるヤプール考察記事では、主要ライターである田口成光、上原正三石堂淑朗によって描かれたヤプールは類似点が多く見られ、同時期に放映された「ミラーマン」における敵キャラクター、「インベーダー」との類似性が指摘されている。田口の脚本による第3話「燃えろ!超獣地獄」(脚本:田口成光、監督:筧正典・満田かずほ)では、超獣バキシムは人間の子どもに姿を変えている。超獣という新設定だからこそ可能となった変身能力は、その姿が人間の子どもであるという衝撃も手伝って今なお印象深いが、その「ミラーマン」におけるインベーダーはそのルーツと言えるだろう。「ミラーマン」に登場する初期の怪獣はどれも抽象的で幾何学的なデザインを持っており魅力的だが、その多くが人間そっくりのインベーダーとしての仮の姿を持っていた。ミラーマンの怪獣達は、ある意味で超獣の発想的原点なのかもしれない。しかし、その中においても特筆しておきたいのは、次作「ウルトラマンタロウ」でのメインライターを務め、「エース」においても最多14本のシナリオを書き事実上のメインライターとも言える田口成光によるヤプール像である。田口の描いたヤプールには市川によるヤプール像とは違った意味での悪辣さ、恐ろしさを備えていて非常に興味深い。僕らの日常生活に知らず知らずのうちに忍び寄る侵略者としてのヤプールは、ほぼ全ての脚本家に共通して描かれているが、田口によるヤプールはその中でも最も親密な空間である「家族」の中へと入り込んでいる。先述した第3話もそうであるが、個人的には幼い自分にとってトラウマのひとつとなったものとして*15 特に挙げておきたいのは、第6話「変身超獣の謎を追え!」(脚本:田口成光、監督:真船禎)である。この話では小林昭二演じる宇宙飛行士が、変身超獣ブロッケンに憑依されてしまうのだが、この脚本が恐ろしいのは、そのことが彼の息子の視点から描かれているというところである。主要ターゲットである児童層にとって、最も身近であり、最も信頼がおけて、最も安心できる存在である親が侵略者の悪意の対象となるというストーリーは、幼い子どもにとってどんなに衝撃的だっただろうか。ウルトラシリーズが描いてきたドラマは、それまで二重の意味で視聴者の児童にとっては「向こう側」であり、安心して観ることのできる世界であった。ひとつは、「SFの世界」として、そしてもうひとつは「大人の世界」である。前作「帰ってきたウルトラマン」でも坂田兄妹の存在が象徴するように、主人公の日常生活が描かれることで、このようなファンタジーとしての二重構造を、もっと身近なものにまで引き下ろそうとする試みは見られたが、やはりあくまでも子ども達は安全圏にいた。視聴者の代表として描かれる次郎少年は危険な目にあうが、それはあくまで「非日常」であった。第37話「ウルトラマン夕日に死す」(脚本:上原正三、監督:富田義治)では、初めて肉親が宇宙人に惨殺されるという衝撃的展開を以って初めて次郎少年の安全圏が侵されるが、この出来事は極力主人公・郷秀樹の視点から描かれており、傷ついた次郎少年の描写は回避されている。しかし、「エース」の本エピソードでは児童視聴者は、衝撃的な事実を暗に突きつけられ戦慄する。「次はお前だ」と。この後、第二期ウルトラシリーズでは子どもがハードな受難に晒される事例が一般となるが、やはりショッキングなエピソードであった。
ヤプールを使って「親」を人質にした田口は、更にもう一つ侵略者を描く上でのタブーを侵している。それは他ならぬ子どもを悪として描いたところである。前述の第3話の他にも、第32話「ウルトラの星に祈りを込めて」(脚本:田口成光、監督:筧正典)でも田口は子どもの姿を借りた超獣を書いている。*16 このこと自体は真新しいことでもない。東映制作の巨大特撮ヒーロー番組「ジャイアントロボ」(1967〜1968)にも、X7という少年諜報員が登場するエピソードが見られる*17。凄いのは田口がヤプールの口を借りて話した「子どもの心が純真だと思っているのは大人だけだ」という科白であり、子どもと大人の信頼関係を揺るがす存在として描くことで、ヤプールの凶悪性は更に増していった。

4・真船禎によるヤプール退場劇―あらゆる悪のアマルガム
「エース」の全エピソード中でもストーリーとして優れているものの大半は、ヤプールを中心に据えて編まれており、特にエーススタッフ随一の映像派・真船禎が監督し、自身も脚本に携わった2本は、多くの脚本家によって徐々に悪役としての個性を確立していったヤプールの集大成ともいうべき必見の作である。この2作は、本当に一般人にも見ていただきたい。第23話「逆転!ゾフィ只今参上」(脚本・監督:真船禎)及び第24話「見よ!真夜中の大変身」(脚本:平野一夫・真船禎、監督:真船禎)である。シリーズは中盤にして、ヤプールは一度本編から退場することになるが、実にシリーズの半分にしか登場していないにもかかわらず、ヤプールが今もって「エース」を特徴付けるキーワードのひとつとして、そしてウルトラシリーズ全体を通しての優れた悪役として根強い人気を博しているのは恐らくこの2作による功績が大きいだろう。それほどまでにこの作品の中で描かれたヤプールは強烈なインパクトを持っている。

  「ヤプール人はおそろしい奴だ。残忍な奴だ。地球を侵略するためなら手段を選ばない。なんだってやるのだ。それがまさに、ヤプール人なのだ」

 23話冒頭では、もはやヤプールのヴィジュアルイメージとして定着している例の歪んだ映像をバックに、岸田森の語りによって上記のようなナレーション。もうこの時点で、本編がこれまでのエピソードとは全く異なった不吉な空気をかもし出しているが、次のカットでは商店街で宗教じみた演説を行う老人の姿が映し出される。ハンディによる煽りのアングルで捉えたせわしないショットが不穏さを助長する中で、当の老人は奇妙な歌を歌う。そしてその歌を歌いながら老人の後をついていく子供達。ヨーロッパの寓話「ハーメルンの笛吹き男」に着想を得たと思しきその奇妙な光景の中、再び岸田森によるナレーション。

「この異常な流行はまたたく間に日本全土を覆った。日本じゅうの子供たちがこの歌を歌い、この踊りに夢中になった。老人はどこにでも現れた。同じ服装、同じ杖を持って。果たしてひとりの人間なのか? それとも似たような多くの老人たちなのか? それは……」
ヤプールの映像に切り替わり、オフの声もヤプールのものに)
「誰にもわからない。わかるはずがないんだよ。地球のばかどもめ。」

 この冒頭だけでもの異様な熱気にくらくらする。
 その後、目の前で消えた子供達を追って老人に襲われる北斗。その後の基地でのシーンでは、自由にセットを動き回る長廻しのカメラワークによる演出が冴え渡り、半狂乱になる高峰圭二による迫真の演技も相まって、異様な盛り上がりを見せる。真船監督による演出の真骨頂と言っていい。
 サブタイトルでも謳われているゾフィの登場すらも印象薄になってしまうほど本編が湛えるネガティヴな空気は強烈である。何かに引き寄せられるように川を渡る子供達を必死に引き止める北斗の様子やその後の北斗と竜隊長の会話における一連のシークエンスでは画面は急激に明るさと彩度を落とした緑っぽいモノトーンの映像へと変化し、悪夢であるかのような重苦しいムードが支配している。川の彼岸である異次元が「あの世」であることを考えれば、川は間違いなく三途の川であり、全体に色濃く漂うのは死のイメージである。かつてここまで徹底的に死を描いた話はなく本作の切迫感はピークを迎える。
 梶隊員提案によるメビウスの輪を応用したテクノロジーによって異次元突入を敢行する北斗。ゾフィの力によって夕子も異次元に向かい、エースとヤプールとの一騎打ちが始まる。光線技による激しい攻防の末辛勝したエース。恨み言を残しながらヤプールは倒れ、キラキラと光るヤプールの残骸と共に空から舞い降りてくる子供達の様子がまたも幻想的なタッチで描かれる。

「死んだ異次元人ヤプールの体は、誰も知らない間に粉々になってやはり地球に舞い降りていたのだ。やがて、地球に何が起こるのか。誰も知らない。恐るべきヤプールの復讐。君たち、危機はまさにせまっているのだ!」

 この作品が優れているのは監督真船禎の卓越した映像センスにより、一貫して幻想的なトーンで描かれており、そのためにまるでひとつの悪夢であったかのような不気味な余韻を残しているという点である。
 真船は、今回の話の核としてマインドコントロール、洗脳の恐ろしさについての物語であると語っている。思想教育やセンセーショナリズムを通じて公然と行われる洗脳の怖さを、ヤプールの姿によって描いたのである。真船のこうした狙いが顕著に表れているシーンが、冒頭の少年達と老人の掛け合いである。老人が「海は青くない真っ黄色だ!」と叫ぶと子供達も「そうだ!」と同調する。別に子供達は嘘をついているわけではない。本当に海が黄色く見えているカットも挿入されている。続く第24話では、今度は親に対するマインドコントロールにテーマが移る。これは先ほど述べた田口脚本における手法を更に過酷な形で推し進めた例だと言えるだろう。真夜中に起きてみると隣に眠っているはずの母親がいない。マザロン人に取り憑かれた母親は見るもおぞましい妖怪の姿に変わり、超獣マザリュースを育てている。単に危険な目に遭うだけならまだしも、最も自分を擁護してくれる存在である母親が恐怖の対象へと変質しており、幼い児童にとってこれほど悪夢的な物語もないだろう。
 いずれにしてもこの2話で、「ヤプール死すとも超獣死なず!怨念となって必ずや復讐せん」という呪詛の言葉を残しヤプールは滅んだ。真船監督自らが描いたヤプールは、これまで何人かの脚本家によって描かれてきたヤプール像の悪を集約したアマルガムのような存在であり、キャラクターとしてひとつの完成を見た言っていいだろう。しかし「エース」におけるヤプールが本当に悪魔的な残虐性を獲得するのは実はこの後である。

5・復讐の呪いで完成する悪魔―市川森一がヒーローに課した業
 真船による2本で一度は頂点を極め、同時に消滅したヤプール。その存在を更に恐ろしく残酷な形で復活させたのはやはり市川森一であった。長いブランクの後、「エース」に対する、そしてウルトラシリーズ全体に対する総決算として書かれた市川森一脚本の2本は、真船によるヤプール編2本と並んで、「エース」が湛えた暗澹たる魅力を代表する大傑作だ。
 第48話「ベロクロンの復讐」(脚本:市川森一、監督:菊池昭康)では、女性歯科医に化けたヤプールと第1話に登場した超獣ベロクロンが再登場し、エース=北斗に復讐を挑んでくるという作品である。敵側の人気キャラクターが、再登場を果たし、ドラマを盛り上げる手法は、こうした特撮ドラマにおける常套手段であり、今日に至るまで度々描かれている。こうした作品群の手法として共通しているのは、敵キャラの再登場によって対立する両者の確執を強調し、そのぶつかり合いがカタルシスを生むというものであるが、このエピソードはそうした系譜の作品の中でも異彩を放っている。本作においてベロクロンやヤプールの復活は必ずしもエースのヒロイックさを盛り上げているわけではない。市川は、「ベロクロン復活」と言う「燃える」イベントを、エースによって葬り去られるヤプールと超獣達の「怨念」にスポットを当てることで、これまでエースが実践してきた正義を相対化して描いた。このエピソードの中でベロクロンは、初回登場時とは明らかに異なる性格を付与されている。それはエースに倒されたという「怨念」であり、その目的には最早「破壊」ではなく「復讐」である。そのため、今回登場する超獣はベロクロンでなくてはならなかった。ベロクロンが登場するための作劇での必然性はもうひとつある。本編冒頭で北斗自身が述懐しているように、ベロクロンは北斗にとって「一度は自分を殺した超獣」として重要な意味をもっている。第一話でベロクロンに殺された北斗と夕子は、ウルトラマンエースの力を得て復活し、ベロクロンを倒す。つまり第一話において実は北斗のほうが先に、ベロクロンに「復讐」していたのであり、本作はそうした「復讐」の連鎖構造を顕在化させたアンチテーゼ編なのである。

「そうだ。おまえは勝った。 勝った者は生き残り、負けたものは地獄へ堕ちる。
 しかし、これだけは覚えておくがいい。勝った者は常に負けた者たちの恨みと怨念を背負って生き続けているのだ。 
 それが戦って生き残っていく者のさだめだ。」

というヤプールの断末魔の科白には今もって戦慄する。そういったストーリーテリングにおける恐ろしさに加え、後々ベロクロンやヤプール復活の伏線となるシャボン玉や能面というアイテム、紫色のライティングを効果的に用いた、監督・菊池昭康の斬新な演出も本編を盛り上げる。菊池はこの次の第49話「空飛ぶクラゲ」(脚本:石堂淑朗、監督:菊池昭康)の演出も手がけているが、閉鎖的な村社会を襲う洗脳の恐怖を全体に暗い画面を用いた本作同様のタッチで表現していて印象深い。
 ベロクロンを使って復讐を始め、去り際にべったりとした呪詛を残して死んでいったヤプールは、最終話「明日のエースは君だ!」(脚本:市川森一、監督:筧正典)において更に卑劣な手段を用いてエースに挑戦し、ついにはエースを地球から葬り去ることになった。エースは最終回でヤプールとジャンボキングには勝利するが、しかしその策略どおり地球を去らなくてはならなくなるのだ。これはある意味ではエースの敗北ともとれるラストである。
 ヤプールに星を滅ぼされ、命を狙われるサイモン星人の少年。ウルトラ兄弟のお面を被り、サイモン星人を虐める子供達に対して、北斗を始めとするTACの面々は弱いものいじめをするなと叱責する。「ウルトラ兄弟は弱いものの味方なんだ。」とまるで自分に言い聞かせるように呟く北斗の姿は、48話におけるヤプールの断末魔の捨て台詞を受けて考えると悲壮感を増す。ヤプールの言葉は、本当にこれまでウルトラマンが行ってきたことは弱いものいじめではなかったのか?という疑念を喚起させる。
 北斗の言葉に改心し、サイモン星人をヤプールの手から守ろうと決心する子供達。しかし、サイモン星人こそが実はヤプールであった。ヤプールは子供達の前で北斗にテレパシーで正体を告げる。

「みんなの前で私を撃つがいい。誰も私がヤプールだとは信じていないぞ。私を撃てばおまえは子供たちの信頼を裏切ることになるぞ。人間の子供からやさしさを奪い、ウルトラマンエースを地上から抹殺することが、私の目的だったのだ!」

 この狡猾さには本当に舌を巻く。最早ヤプールの目的は地球侵略ではなく、自らの宿敵エースを追放することが明言されている。これは、圧倒的な兵力で地球とウルトラマンを攻略しようとしたこれまでの最終話とは全く異なるタイプのものである。サイモン星人を射殺する北斗に、子供たちは失望する。子供達の信頼を回復するために、北斗は自らの正体を明かしエースに変身する。ウルトラマンエースの巨大感を強調する煽りのショットに北斗自身の声によるモノローグがオーバーラップ。

「彼らに真実を伝えるには、こうするしか仕方がなかった。
 さようなら、地球よ。
 さようなら、TACの仲間たち。
 さようなら、
 北斗星司」

 これまでウルトラマンエースの科白は北斗ではなく納屋吾郎によってなされていたが、ここにきて初めて北斗自身の声による独白となる。人格としてのウルトラマンが初めて明確に示された瞬間であった。しかし、この後子供達に向けられた科白は再び納屋氏によってなさているため、戦いの間に北斗の人格がエースに吸収されてしまったような印象を受ける。本当にエースは北斗に別れを告げたのである。重要なのはエースの力を持ったが為に、北斗は子供達を裏切ることになったという点であり、ここにヤプールの卑劣さがある。北斗は他ならぬ自らの力に滅ぼされたのだ。抽象的な悪魔のイメージを投影し、創作された異次元人ヤプールは、復讐の呪いによって完成したといっていいだろう。そしてその呪いの元凶は他ならぬエースとヤプールの闘争にあった。正義とは「超獣を殺す」行為であり、そこに付き纏う怨念が、再び超獣を生み出す。その連鎖は終わることがない。エースは戦いに勝利したが、やはり怨念は残るだろうし、エースは地球を去らなくてはいけない。やはりエースが実践してきた正義は弱いものいじめだったのではないか?そんな暗澹たる気持ちにまでさせられる絶望的最終回ともいえるだろう。それに対する唯一の希望がエースが子供達に向けて残した科白である。

<終章>連鎖する悪意とそれに向かうたったひとつの正義とは

「優しさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと・・・
それが、私の最後の願いだ」

 30年以上も昔に作られたたかが子ども番組の一節であるし、多くの人々がこれを絵空事の理想論だと笑うかもしれない。実際、「ウルトラマンA」という番組はフィクションであるし、やはり絵空事なのだ。しかし、Aのこの言葉を、本気で実践することは難しい。多くの人々の善意がたったひとつの悪意によって台無しになってしまうことはよくある話だ。そういった裏切りに出会ったとき、誰でもとても傷つくし、悲しむ。そういった悲しみが、やがてひとつの悪意へと変質していったりもする。誰かを憎む心というのは往々にして自分自身のトラウマに裏打ちされているものであるし、僕らの身の回りにある争いごとの多くはこういう悪意の連鎖のメカニズムだと説明することが出来る。僕らはそれをヤプールと呼ぶことが出来るかもしれない。この世にヤプールがいなくても人々は憎みあい、争っているのだ。僕らは誰でも自分が大切だし、自分が大切に思う人たちを大切に思う。そういった悪意や裏切りを乗り越えて、優しさを失わずにいることはやっぱりとても難しい。
「エースの願い」に込められた想いはガンジーによる非暴力・不服従のアティチュードによく似ている。「エースの願い」は、連鎖する悪意と暴力に立ち向かうことのできるただ一つの脆弱だが誇り高いマニフェストである、と僕は疑わない。

DVDウルトラマンA Vol.1

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*1:実際にメガホンをとっているが

*2:勿論、「帰ってきたウルトラマン」の11月の傑作群のように例外もある。ここで言っているのはそういう作品ではない。

*3:基礎知識において述べた新機軸「ウルトラファミリー」の一環である。「エース」のドラマは、「ウルトラマン」から前作「帰ってきたウルトラマン」の作品群と一部世界観を共有し、ウルトラシリーズに新たな広がりを見せた。その再たる例が、「ウルトラ兄弟」という設定である。前作「帰ってきたウルトラマン」でも、初代ウルトラマンウルトラセブンのゲスト出演はあったが、それぞれの関係性にまで言及されることはなくあくまでゲストキャラクターという位置づけであった。しかし、「エース」において、それまで登場してきたウルトラマン達(ゾフィーウルトラマンウルトラセブン帰ってきたウルトラマン)とウルトラマンA は宇宙の秩序を守る銀河連邦という組織に所属し、その中でも特に兄弟の契りを結んだ特別な関係を持っているとされ、シリーズ中何度か他のウルトラ戦士達がエースを助けにやってくるという描写がなされた。

*4:第話は兄であるゾフィーがエースを叱責し、ビンタを張るというある意味で必見のシーンがある。

*5:それが恋愛感情と呼べるかは別として

*6:織姫と彦星が恋人同士だという話は一般常識ではあるが、夕子が実は月星人だったことを考えると、結果的には自然な質問だと言える。この時点ではライターも、想像すらしていなかっただろうが。この他にも夕子の言動にはどこか宇宙人めいた天然キャラっぽいところがあり、月星人だと思いなが見ていると面白い。

*7:第27話「奇跡!ウルトラの父」(脚本:田口成光、監督:筧正典)

*8:ウルトラマンタロウ第39話「ウルトラ父子餅つき大作戦!」(脚本:石堂淑朗、監督:山際永三) 

*9:ウルトラの母は太陽のように」(脚本:田口成光、監督:山際永三)))に登場した、オイルドリンカーを最後に二度と現れない。((一部ヤプールとともに復活するが

*10:辰巳出版僕らのウルトラマンA

*11:巨大やプール

*12:脚本:小山内美江子、監督:円谷一

*13:第4話「三億年超獣出現!」(脚本:市川森一、監督:山際永三)

*14:ウルトラマン」第33話「禁じられた言葉」

*15:ウルトラシリーズ」は僕が幼稚園に通っていた頃に、よく放送されていたが、「エース」にはことにこうしたネガティブな印象を残している話が多い。しかし、その後小学生になって一度はウルトラを「卒業」した僕が、再び「ウルトラ」にのめり込むようになったのも「エース」がきっかけであったりする。リアルタイムで「ティガ」が始まったところも大きいが。

*16:第3話に登場する一角超獣バキシムと第32話に登場する超獣人間コオクスは高橋仁という同一人物の子役が演じている。ヤプールが変身する子どもは同じ姿なのだと妙に納得させる。この子は、この当時沢山の特撮番組で見ることが出来る常連で、このほか「エース」の最終回にもちゃっかり登場していたりもする。その後大人になってからは「ウルトラマンティガ」(1996〜1997)第3話「悪魔の預言」(脚本:小中千昭、監督:村石宏實)で炎魔戦士キリエロイドの人間態・キリエル人を演じ、マニアを喜ばせた。

*17:第18話