Devil's Own

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特殊な凡人の凡庸な世間への復讐或いはキッス―万田邦敏「接吻」


万田邦敏監督の「接吻」が壮絶な傑作なのだけど、感想を書いているうちに何が書きたいのかわからんくなってしまった。というわけで箇条書きで許してください。いつかちゃんと書くかもしれません。もう一回見ようかと思っています。
・凡庸な人間に限って自分のことを特殊な存在だと思っている。彼らは、自らの自己同一性と優位性を獲得するために適当な人間を探し出して「凡人」と分類し、蔑む。*1「接吻」は、そういった「凡人」を生み出す構造を孕む「世間」への壮絶な復讐の物語だ。

・説明的な台詞は一切廃して、役者の表情や動作で細かい心理や狂気を描写することに腐心している。物語の進行上どうしても必要な説明は、京子(小池栄子)が坂口(豊川悦司)に宛てて書く書簡によって補足されている。

万田邦敏の作品は今回が初見なので何ともいえないのだが、作家主義の文脈で語る作品ではないような気がした。カットは人物のアクションの中途で割られるなどして、とても自然に編集されている。構図ではなくてアクションで見せるシーンが多い。

・特に物語の後半における小池栄子の表情が怖い。殺人者坂口を愛し、坂口という対象を得ることで自己同一性を獲得しようとする京子のオブセッションがどよめいている。そんな京子の暴走に心を開きつつも、慄然とする豊川悦司の表情もまた絶妙。

・ブランコに乗るシーンでの小池栄子の表情は「ピクニック」でのシルヴィア・バタイユのそれとなんら変わりないピュアネスを体現していて、可愛い。大人になってから乗るブランコは、子供の頃の何倍もスリリングで面白いのをご存知だろうか。試してみて欲しい。

・現代において、「手紙」がコミュニケーションのツールとして用いられているのも色々と考えさせられるものがある。

・京子にしても坂口にしても恵まれない境遇にはあるものの、別段特殊な性格を持ち合わせているわけではない「凡人」であったこと強調される。そして彼らは、彼ら自身や彼らの関係を世間に「説明」されることを断固として拒否する。特殊で刺激的な事件があれば騒ぎ立て、勝手な動機付けやストーリーを組み立てることで安心感を得ようとするマスコミの病理を抉り取っているように思う。

・ラストで京子が叫ぶ「私をどうにかしようとしないで!」という台詞が明快だ。連続殺人を犯した坂口が黙秘を続けるアティチュードも自分に対するあらゆる分析・解釈へのレジスタンスに根ざすものだ。坂口の場合だと、それまでは「凡人」として扱われていたにもかかわらず、殺人を犯すことによって突然「特別な存在」として祭り上げられる。坂口の態度はそんな無責任で現金な世間に対する諦念と嘲笑でもある。ある出来事をきっかけに京子が、自分と坂口が同じ立場に立ったと感じる場面があるが、これも世間が定義する「凡人からの逸脱」の構造を念頭に置いたものだ。

・「活劇に満ちた接吻」として話題のキスシーンは、確かに凄まじい。それまで何かが起こることを予感させながらも全てが静謐に進んでいく中で、このキスをきっかけに激情が溢れ出し、ラストカットのストップモーション、そしてタイトルクレジットとエンドロール。ここにきて観客は初めてタイトル「接吻」が含む意味を知り、戦慄する。

・ラストのキスは「カラマーゾフの兄弟」の作中劇「大審問官」におけるキスと同じくらい大きな謎と必然に満ちたもので、一線を画している。自らの杓子で「特殊な個人」を勝手に「凡人」とラベリングし、説明しようとする全ての人間に対する復讐だ。このキスの意味を尤もらしく説明するのは簡単だが、何も知らない状態であの場面で起こるキスを予測することはなかなか難しい。あのキスは世間に跋扈する「尤もらしい」分析や説明を拒絶するための行為だからだ。

*1:と書いている僕自身もこうやって「凡人」を分類しているわけで、そうなるとやはり僕も「凡人」なわけなのだけど、でも自分を「凡人」と自覚することは先の定義によれば「凡人」には当てはまらないわけで、じゃ僕は「特殊な人間」ってわけ?と考える時点でやはり「凡人」に堕してしまうというループ。要するに世の中に凡人なんてものはいない。