Devil's Own

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「ボヴァリー夫人」、発情装置としての馬車

 「靖国」には到底興味が持てないという文化水準の低い人間であるので、家や学校のメディアラボでDVDばかり観ているが、就活終わった4年など当然暇であり、そうやって観た映画を全て挙げていくととんでもないことになってしまう。今年は年間400本は軽く越えてしまいそうだ。
 バウスシアターの爆音上映で「ワイルドバンチ」なんてちょう観たいと思っていたがあいにく金欠である。シネマヴェーラでラングの「外套と短剣」、ヘルツォークの「フィッツカラルド」を見た。「フィッツカラルド」は150分の長尺で、最初の一時間くらいは主人公のフィッツカラルドがひたすら空回りしているし、そんな痛々しいけれど妙にギラついた中年男のフェイスクローズばかりを映し出すカメラも退屈で眠い眠いと思っていたが、アマゾン川流域を開発する段階になって俄然面白くなった。

ボヴァリー夫人 [DVD]

ボヴァリー夫人 [DVD]

 最近DVDで観たものだとジャン・ルノワールボヴァリー夫人」が素晴らしかった。この映画は元々の尺が3時間近くという文字通りの文芸大作映画であったのだけれど、配給側の意向によって短く再編集されたものしか現存していない。元来の長さの4割近くがカットされたのだから作品は「ずたずた」にされたといっても過言ではないだろう。故にルノワールの作品の中では「未完」すなわり不完全なものとして扱われている。彼のフィルモグラフィーにおいて「素晴らしき放浪者」と「トニ」という傑作の間にあるという立ち位置も作品の評価を曇らせる要因になっているようだ。山田宏一の責任編集の下、ジャン・ルノワールを総力特集したユリイカ増刊号*1での映画評を中条省平が担当しているが、作品制作の背景やキャストの色恋沙汰の顛末については妙に詳述してあるが、こと作品に対する評価は、ボヴァリー夫人役のヴァランティーヌ・テシエの演技が大仰すぎたり、物語が停滞していたりするなど否定的な見解が目立つ。確かにフローベールの原作を読んだ人間にとってはこの映画はあまりに簡素化され過ぎている気がするだろうし、逆に未読の人間からすれば序盤の展開など早すぎてついていけないかもしれない。フローベールの原作を読んだのはもう1年以上前なので、僕自身もだいぶ記憶が曖昧になってしまっていて、そんな僕がストーリーを簡単に説明するとしたなら正しくルノワールの映画のようになるだろう。原作で最も感動的なシーンは夫人に死なれた哀れな夫シャルル・ボヴァリーが、夫人の髪の毛を握り締めたまま息絶えたというエピローグだが、この映画ではそれも省略されてしまっている。*2
 にもかかわらず「ボヴァリー夫人」は、簡潔で魅惑的な映画だ。クロード・シャブロルによる映画化は原作の雰囲気を大事にするあまり作家性やストーリーのうねりが損なわれていて、文芸映画にありがちな陥穽に嵌ってしまっていた気がするが、ルノワール版にはそれがない。原作の本質である「ボヴァリズム」という思想すら逸脱したこれぞルノワールとも言うべき恋愛劇へと昇華されている。窓枠を通した画面構成や鏡や扉を利用した奥行きを持たせるカットなどルノワール的な仕掛けをそこかしこに見つけることができる。特にエンマが劇中がふたりの愛人と関係を結ぶまでを描く手つきが見事で、恋愛におけるあらゆる喜びと官能に画面がじっとりと濡れているかのようだ。
 第一の恋人ロドルフは、初登場の時点でエンマに対して好色な視線を投げかけているが、ふたりで馬にのって森林を駆け抜ける場面からむせ返るほどのセックスの匂いが立ち込める。森林の中でエンマを口説きキスしようとするロドルフと「ノーノーノー」と避けるエンマ。葉が風で擦れる音、柔らかな木漏れ日、木の葉を貪る馬の動きのひとつひとつに観客の劣情は極度にまで刺激される。ようやく唇を重ねる二人。その映像に、木々をゆるやかなパンで仰角気味にとらえた映像*3がオーヴァーラップ、そこに音楽が挿入されることで観客と登場人物の興奮がピークを迎え、エクスタシーの絶頂と倦怠の両方を味わうことが出来る。
 第二の恋人レオンの場合は更に簡潔だ。劇場で再会した際にレオンは愛を告白し激しくエンマを求めるが、ロドルフとの失恋に反省したばかりのエンマはその要求を拒むために手紙をしたためる。大聖堂で、ロドルフのときと同じように押問答しながらレオンとエンマは馬車に乗り込む。ここで馬車がゆるやかに動き出し進んでいくヴォリュームとテンションを高める音楽の盛り上がりから観るものは再びエンマの感情の昂ぶりを予見する。次のカットでは喜悦の表情に充ちたエンマが手紙を窓から破り捨てるのだ。最小限の演出で、エンマの心理と状況の変化を饒舌に物語っている。
 エンマを発情させる仕掛けとして音楽のほかに馬車ないしは馬が用いられていることにも注目したい。物語が始まって観客が最初にエンマの喜びの表情を目にするのは、シャルルが購入した馬車をエンマに見せるシーンである。このシーンはとても素晴らしく、シャルルが窓を開いて向こう側の馬車を指し示し、それを見て喜んだエンマが駆け寄り、二人して馬車に乗り込み走り出すまでの様子がワンシーンワンカットでとらえられている。窓を利用した縦の構図の演出が冴えるルノワールの真骨頂とも言うべき場面だ。この場面が、結婚式や初夜のシーン*4すらもすっ飛ばして、シャルルとエンマの結婚生活の最初の場面として僕らに映し出されるのだ。馬車に乗ってはしゃぐエンマの姿は、省略された結婚初夜の営み代替するほど興奮に充ちている。
 4割近くの短縮作業を経たにも関わらず、作品中には時折走る馬車の上から過ぎ行く道をとらえただけのカットがインサートされることも指摘しておきたい。*5ルイス・ブニュエルの映画「昼顔」でカトリーヌ・ドヌーヴがエロティックな妄想に没頭する際に馬車の音が用いられていたことを連想せずにはいられない。

*1:

*2:長尺版にあったかはわからない。

*3:中条氏も指摘しているが言うまでもなくロドルフに身体を許し身を横たえたエンマの主観ショットであり、この手法はシャブロル版で効果的に踏襲されている。

*4:初夜のシーンはエンマ役のテシエとシャルル役のピエール・ルノワールの仲を嫉妬したプロデューサーのガリマール(当時テシエの恋人であった)によってネガごと焼き捨てられたとう逸話もあるが真偽はわからない。

*5:だからこそこういう無意味なカットが必要とされたのかもしれないが