Devil's Own

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クローネンバーグの冷め切った正義感「イースタン・プロミス」


 不道徳な映画だ。描かれる暴力描写や少女売春のテーマではない。この映画は道徳そのものが不在なのだ。
 「イースタン・プロミス」はクローネンバーグとモーテンセン双方のキャリアにとっての代表作となるだろう。サウナでの戦闘場面は、本来的な人間の闘争心が剥き出しになるシーンだが、実はこの映画が身にまとっている不道徳さの本質はこういったシーンにあるのではない。サウナの場面は「ヒストリー・オブ・バイオレンス」における階段でのセックスシーンと同じく、この映画のアイコンにはなるかもしれないがクローネンバーグの意図は別の所にある。センセーショナルなシーンで観客の目を逸らし、本当に大事なものをその死角に配置する。クローネンバーグの常套手段かもしれない。
 僕らの日常生活における道徳はもちろん描かれている。その意味でナオミ・ワッツは道徳を体現する存在だと言える。ただ、彼女の道徳はヴィゴ・モーテンセンが属する世界を前にすると敢えなくつき崩れてしまう。彼女は彼女なりの「正義感」を持って行動しているが、その正当性が依存しているものは実に曖昧かつ脆弱だ。彼女と同じく「道徳的」な世界に属している叔父のステパンがあからさまな人種差別主義者であり、いささかも道徳的でないところにクローネンバーグの冷ややかな距離感を感じることができる。ルノワールの言葉を借りるならば、「最も恐ろしいことは、すべての人が等しく正しい道理を持っているということだ」。観客はナオミ・ワッツヴィゴ・モーテンセン、一体どちらに感情移入すべきなのか戸惑い、その宙吊り状態が息を殺すようなサスペンスを孕む要因となっている。
 そして対極として描かれるふたりの登場人物がぐっと距離を縮める場面から物語が急速に展開していく。動かなくなっていたワッツのバイクを修理したモーテンセンが彼女の勤務先である病院の前で待っている。前日モーテンセンは自分と彼女が異なる世界に生きる存在あり近づくべきではいと警告しているから矛盾した行動である。それだけではなく、モーテンセンはワッツが知りたがっていた私生児(クリスティーヌ)の実家の情報を渡しさえするのだ。そのメモを突き出すモーテンセンにワッツが一歩近寄るアクションとともに、カメラもゆっくりと二人への距離を縮める。それぞれの冷ややかな距離感で描くことで感情移入を拒んでいたふたりのキャラクターが繋がり、ここで初めて観客もふたりのキャラクターに近づくことを許される。更に、終盤になって、ヴィゴ・モーテンセンも、こちら側の道徳的な世界の属する人間と言うことが明らかになる。しかし、だからといって劇中のモーテンセンがヒロイックに映り始めるということはない。正体が明らかになったことで道徳の不在性は逆説的に色濃くなる。同僚の態度からも分かるようにモーテンセンの正義は明らかに「やりすぎ」だからだ。
 さしずめ、この映画唯一の道徳は赤ん坊クリスティーヌだということが出来るかもしれない。ロシアンマフィアのボスが14歳の家出少女をレイプし孕ませた呪われた私生児。映画で描かれる悲劇の中心にありながらも、その責任の一切から自由な存在である。ゆえに不思議とこの赤ん坊の前でだけ全ての登場人物が各々が属する道徳を逸脱せざるをえない。父親にはうだつが上がらないながらも、命令どおり赤ん坊を始末することができないキリル(ヴァンサン・カッセル)も然り。ラスト、不自然とも言えるキスを演じるモーテンセンとワッツも然りだ。
 それにしてもこの映画の魅力の大半はヴィゴ・モーテンセンのセクシーな佇まいに尽きる。タバコを舌で消すあたりからどうにもヤバい感じがしていたが、ホモセクシャルな誘惑を喚起させるモーテンセンの色香とクローネンバーグのフェティシズムが物語を完全に追い越してしまっている。ワッツとモーテンセンのキスシーンよりも、モーテンセンヴァンサン・カッセルをなだめるシーンのほうがよほどドキドキする。