Devil's Own

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「グラインドハウス USAバージョン」―すべてはエンドマークに向かって

昨日書いたものを加筆訂正しました。

 夏だ血飛沫だ切株だー!ってことで、「片腕マシンガール」や「ホット・ファズ」など、夏だからこそ見たい血祭り系新作映画が目白押しで今から楽しみだが、早稲田松竹で「グラインドハウス」のUSAバージョンが公開されていたので暇だったし見に行った。なんだかんだと不満を垂れながらも「デス・プルーフ」はこれで4回目、「プラネット・テラー」も2回目の鑑賞だ。やっぱ好きなんじゃんこの映画。目当ては言うまでも無く2作の間に挿入されたフェイク予告編。同時上映はこちらも何度見たか分からないジョージ・A・ロメロの名作「ゾンビ」。「ゾンビ」やっぱ最高だよ。ホラー映画じゃなくてパーティー映画だ。これ見るとやはりダラボンの「ミスト」はなんともね・・。
 何は何とも、これでようやく完全版での「グラインドハウス」を見ることができた。一時はDVDボックスを買おうかと悩んでいたが、更に悩む結果となった。「デス・プルーフ」、「プラネット・テラー」にロブ・ゾンビエドガー・ライトなどによるフェイク予告編を併せて3時間超過となったが、両監督が目指していたものはこの上映形態で初めて理解されるものだったようには思う。目当てだった3本の予告編はどれも馬鹿馬鹿しく面白い。ブログやレビューサイトなどで流布している「このバージョンを見ずして・・」といった言説にはいくつかの点で同調できない部分もある。先述したようにトータルタイムが3時間を超えるということもあるが、「グラインドハウス」はある意味でB級映画に対するタランティーノの偏愛(フェティシズム)に完全に付き合わされることにもなるからだ。「グラインドハウス」としての全体像を見てみると、フェイク予告は勿論「プラネット・テラー」すらもタランティーノによる演出の一部であり、「デス・プルーフ」の、あの素晴らしいエンディングのための余興であったという印象を受ける。「デス・プルーフ」でしばしば批判の対象とされる女の子たちの会話を延々と長回しで捉えるシーンなどに顕著だが、そういった意図的な「蛇足」の中に「プラネット・テラー」を含むすべてが回収されてしまっている。「プラネット・テラー」には「デス・プルーフ」での「回り道」は見られない。随所随所に見せ場があり、物語が滞りなく進んでいく。基本的なプロット構成だけ見れば「デス・プルーフ」よりマナーに則っており、よく出来ているのだ。それでもその全編を以ってしても、「デス・プルーフ」終盤の圧倒的なエクスタシーには到底太刀打ちできない。手に汗握るカーチェイスからApril Marchの歌に乗せたエンドロールまで一気に雪崩れ込むあのスピード感と暴力性は劇場で見ると格別だ。焦らしに焦らされた挙句不意にイカされ、そこから先はめくるめくオルガスムが待っている。ひとたびそれを経験してしまえば、もはや「プラネット・テラー」はお行儀の良い前戯でしかなくなってしまう。例えに品が無くて申し訳ないですが、「グラインドハウス」におけるカタルシスはそうした性的快感を例に引かずにはいられないくらいプリミティヴなものなのだ。「グラインドハウス」はタランティーノオブセッションの賜物だ。彼は自作の中で偏愛するB級映画の再現を一貫してきたが、「グラインドハウス」はそういった再現性の結晶であるかもしれない。言うまでも無くそれはタランティーノの作家的エゴイズムであり、そこに商業倫理が介在したほうが却って均衡がとれることもあるだろう。そういったタランティーノの偏愛も勿論受け入れるが、僕としては単独でそれぞれ見る方を好む。演出において必然的な「蛇足」は「デス・プルーフ」単独でも十分に体現されているし、そのダシに使われる「プラネット・テラー」があまりにも不遇だと思うからだ。それにUSAバージョンではカットされたシーンもある。「プラネット・テラー」は一度見たきりなのでどこがカットされていたかわからなかったが*1デス・プルーフ」は結構沢山カットされていた。特にあのラップダンスのシーンが削除されていたのは残念と言うほかなく、ダンスシーンこそが映画を見る喜びの大半だと思っている人間にしてみれば、眠くて眠くてたまらない前半部の中で一番魅力的なシーンだというのに!
 「グラインドハウス」の一部になってしまうと「プラネット・テラー」はあまりに脆弱だ。主演のローズ・マッゴーワンがあまり魅力的でないのだな。同じ「プラネット・テラー」の中でもマーリー・シェルトンのがビッチ度3割増だ。ロドリゲスは恋人のマッゴーワン主演で映画企画をぶち上げまくって製作者を辟易させているらしいが、最近ではそれも沈静化しているらしい。ただ、「バーバレラ」のリメイクだけは許せるというか、ちょっと見てみたかった。そういえば「プラネット〜」でマッゴーワンの相手役エル・レイ(フレディ・ロドリゲス)が死に際チェリー(マッゴーワン)のお腹をさすりながら「弾は外さない」と言うジョークを飛ばしていたことに二度目見て気がついた。これはちょっと笑った。
 タランティーノもロドリゲスも基本的にフェティシズムの監督だ。フィルム傷やコマ落ちなど随所に散りばめられたフェイクなレトロ感を単なるフェティシズムではなく演出的効果としていかに機能させるか、これが二人の作家にとって今後の創作の鍵となるだろう。このバランスは実に難しい。日本での封切り近くにこのUSAバージョンが六本木ヒルズで限定上映されたが何かそれってグラインドハウスの意味間違ってねーか?とちょっとイラっとしたのを覚えている。*2ともすれば、お洒落サブカルやファッションパンクのような薄ら寒さが漂ってしまうのだ。「デス・プルーフ」ではサウンドトラックとしてTレックスやコースターズなどオールドスタンダードなロックンロールが使用され効果を上げているが、ラストを飾るのは60年代のフレンチ・ポップを参照した「現代」のアーテイスト、エイプリル・マーチの歌であることからもタランティーノはそういった「フェイク意識」に自覚的だと言える。
 ただ特に「デス・プルーフ」はいくつかの点で演出がフェティシズムを凌駕する瞬間を見ることができる。そういう点でも「グラインドハウス」は2000年代を代表する最重要映画のひとつだと言えるかもしれない。

*1:技師か看護師みたいな人が「先生が切断しますか?」と聞く場面とかはなくなってた気がする。

*2:ま、早稲田松竹にしてもアーバンな雰囲気溢れる映画館ですが。