Devil's Own

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もっと不道徳な映画またはカッコつきの「正義」について―阪本順治「闇の子供たち」


 まずは大傑作。そしてとんでもないくらい不道徳な映画。
 結局しっかり感想を書くことができなかった阪本順治監督の前作「カメレオン」*1は、手に汗握るカーチェイスあり、スリリングな乱闘あり、乾いた恋愛ドラマありの理想的なアクション活劇*2だった。90分弱の上映時間も含めて真に理想的な娯楽映画だともいえる。対して「闇の子供たち」では、日本にとっても無関係とはいえない社会問題を、タイでのロケーションを中心に130分間丁寧に描いていく。しかし、映画としては少しも難解でなく、やはり多くの人に見て欲しい娯楽映画だ。阪本順治は、デビュー作「どついたるねん」から一貫して明快な映画を作り続けているように思うが、もはやそれが大衆に浸透することには全く興味を持っていないのだろうか。上映する劇場も全国でわずかだし、大々的な宣伝もない。「ミニシアターっぽい」映画が多く劇場でかかって、「商業映画っぽい」映画が単館でしか封切られない捻転した現状がある気がするがどうなのだろうか。それにしてもデビューから20年を目前にする阪本順治は今間違いなく何度目かの創作的ピークにある。
 人身売買という重厚なテーマを安易なヒューマニズムやドグマに帰結しようとせず、距離感を持って描く。その手つきから多くの人が真っ先に連想するのはクローネンバーグの「イースタン・プロミス」だろう。それ以外でもこの2作における類似点は多い。ネタバレを回避したいので詳述は避けるが、「イースタン・プロミス」と同じドラマツルギーが「闇の子供たち」では真逆の形で使用されている。そうした場合、前者では映画における「正義」を辛うじて実現させるための安全装置として機能していたものが、後者においては過酷で悲惨な悪夢となって見るものに迫ってくる。終盤フラッシュバック形式で明かされる「ある事実」によって、観客がそれまで見ていた何気ない風景が一変し、全く違った様相を呈するだろう。未見の方にはまず、そこに戦慄して欲しい。このエントリーを読むのはその後でも遅くはないのだから。
 そうしたエクスキューズを踏まえたうえで以下はネタバレも含めて書いていくことにしよう。
 繰り返して書くが、不道徳な映画である。「イースタン・プロミス」でわずかに残存していた正義も木っ端微塵に粉砕してしまっている。観客がそれを目の当たりにするのは最後の最後であるが、実はこの映画において「正義」は初めからある程度宙吊りな形で描かれる。つまりは、「何が(誰が)正しいのか」という疑問に対して明確な手がかりを提示しないままドラマが進行していくのだ。そこでやはり思い出してしまうのは「ゲームの規則」においてジャン・ルノワールが訴えた「すべての人々が自分のとって正しい道理を持っている」というアフォリズムである。事実、この映画は一種の群像劇とも言うことができる。ひとりの人物のひとつの物語を時系列的になぞらえるのではなく、タイの児童人身売買組織を巡る様々な人物のエピソード積み重ねることで実態を多角的に描いていく手法がとられているのだ。それにしても、そうしたエピソードの積み重ねがやがて大きなうねりを生み出し、最終的にひとつの物語として収斂していくプロットの巧みさには瞠目する。日本の子どもの臓器移植のためにタイの子どもたちの命が犠牲になっているという衝撃的なネタを追う新聞記者南部(江口洋介)を主軸に、地元のNGOを訪ねてボランティアとしてタイにやってきた恵子(宮崎あおい)、児童人身売買の仲介人であり児童売春宿で働くタイ人のチット(プラパドン・スワンパーン)、売春宿でエイズにかかりゴミ袋に入れて捨てられる少女ヤイルーンなど、何人かの登場人物がそれぞれにとっての「道徳」を持ちそれに依拠した行動をとる様子が描かれる。しかしながら、映画はそのいずれにも擦りよろうとしない。観客にとっての「正義」は疑問符を伴ったままであり、この文章で表現されるようにカッコつきのままだ。
 ボランティアを通してタイの子供たちを助けたいという「信念の人」恵子は、「タイの子供たちの命が奪われるんですよ」という「大義名分」を振りかざすヒステリー気味の演技に加え、新聞社の清水(豊原功補)に「所詮自分探し系だろ」と冷酷に吐き捨てさせることで、幾分アイロニカルなキャラクターとして描かれている。宮崎あおいは肥大化した正義感と自己実現への欲求も持て余した典型的な「自分探し系」の若者を見事に演じていて、感情移入を許さない。子供に臓器移植を受けさせようとする日本人夫婦を説得しようして恵子が感情が爆発させる場面では、長回しとフィクスを用いることでスノビズムを回避する阪本の手腕にも感心する。
 売春宿で働き、子供たちを「モノ」のように扱う冷酷な青年チットは、自身もそうした児童売買の被害者であったことが描かれている。フラッシュバック形式と主観ショットとによって挿入されたチットの記憶は彼を陵辱する白人男の肥満体型もあいまってグロテスクを極める。この場面のみならず、子供たちを陵辱する外国人たち(日本人も含む)はすべからく醜悪であり、児童売春という過酷な現実を容赦なく表現しようする阪本の徹底した態度が窺える。
 さて、ここからが本当のネタバレになる。
 江口洋介演じる新聞記者南部は、観客にとって安心して感情移入することができるほぼ唯一の存在であり、したがって宙吊り状態とも言えるこの映画の「正義」の正当性をぎりぎり支えている安全装置であるが、最後の最後になってこれが瓦解する。南部自身も実はペドフィルであり、タイ人の子供を買ったかつての記憶がフラッシュバックによって明かされるのだ。これによって、南部のそれまでの行動は正義の実践ではなく、過去に対する贖罪としての意味を帯びてくる。それは「自分探し」をモチベーションとする宮崎あおいと同類であるどころか、現実的な罪を負っているだけに一層悪質で唾棄すべきものだったのだ。冒頭で「イースタン・プロミス」と同種のドラマツルギーが真逆の形でとられているといったのはそのためである。「イースタン・プロミス」ではロシアンマフィアであると思われていたヴィゴ・モーテンセンが実は警察側の囮捜査官であることが明らかになり、映画で描かれる救いのない現実の中で辛うじて「正義」が回復する。*3一方で「闇の子供たち」では「正義」が「悪」に裏返っているだけに被害は甚大だ。
 終盤で自殺した南部の遺品を整理する与田(妻夫木聡)が、壁を覆っていた布を剥がす場面は、映画を支えていた「正義」が音を立てて突き崩れていくさまを見事なまでに可視化している。布の剥がしたときに現れる悪。そこには幼児への虐待や強姦の罪で逮捕された犯人たちの新聞記事がびっしりと貼り付けられており、その真ん中に鎮座しているのは自らの顔を映す鏡であった。鏡の前に立って呆然とする妻夫木と豊田。ブラックアウト。
  この衝撃的なブラックアウトの後、エイズで命を落とした少女ヤイルーンが、死の直前まで名前を呼び続けていた友達と河で無邪気にはしゃぐ映像をバックに桑田圭祐によるエンディングテーマがかかり、スタッフロールとなる。多分シネフィルな人たちはここをすごく怒ると思うが、製作委員会にはアミューズが名を連ねているわけだから、その辺には寛容になろうと思う。重厚な映画が突然「火サス」のようになって確かに興醒めなのだが、しかしあのブラックアウトで映画が終わるのはもっとキツい。少女たちがはしゃぐ美しい河辺のショットは現実にはあるはずがない、つまりとても映画的であるといえる。それは見るものにとって希望でもあり絶望でもある。どこまでも両義的なイメージなのだ。

*1:前作といっても先月だが。

*2:最近活劇というコトバは妙に高尚になっているので使用するのは気が引けるが。

*3:もっともモーテンセンがマフィア側に寝返る可能性も十分にあり、そこを曖昧にするラストが効果を上げていたのも事実だが。