Devil's Own

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基地外ピエロの『ハプニング』−『鳥』とかなんとか言ってんじゃねーよ!


シャマランなんて僕の人生にはあまり関係がないなと思いつつも結局はこの作家の作品を追い続けていることになるわけだが*1、しかし『ハプニング』はもしかしたら一番好きなシャマラン作品かも知れない。と、見てから数週間くらい経った今になって思う。
 大体、シャマランの映画なんて間違っても全国のワーナーマイカルとかで上映される類のものではない、超ニッチで変態向けなんだんだよ。こんなゲテモノ映画が小奇麗なシネマコンプレックスとかで堂々と上映されるなんてどうかしてる。メイド喫茶が大衆に浸透しているのと同じくらいどうかしてる。シャマランの映画にシニア割引や高校生割引が適用されて普通に財布に優しい感じになっちゃってることはハプニングだし、ポップコーンとナチョスとコーラをお供するくらい日常に溶け込んじゃっている事態はハプニングだし、『花より男子』とスクリーンが隣同士なんてやばいよ、大ハプニング。大惨事。「シックス・センス」ブランドもとっくになくなっているだろうに、シャマランはこんなカルト映画ばっか好き放題作っていて大丈夫なんだろうか。イカレテル!
 表向きは周知の通り、ヒッチコック『鳥』を雛形に据えたパニック映画だ。『鳥』と言えば、フランク・ダラボンの『ミスト』が記憶に新しいが、あの映画はどちらかと言えば「霧」という自然現象を文字通り隠れ蓑として纏ったモンスター映画だった。『ハプニング』には空想の動物は登場せず、最後まで「人間VS自然」の対立構図が貫かれている。その意味ではより『鳥』度が高い映画だ。人々が次々と自殺していく怪奇現象の不条理さ、その全貌を掴むことの出来ない一般人を視座としたストーリーテリング、そして解決を置き去りにしたエンディングなどは勿論だが、主人公達が身を寄せる民家に住むパラノイア気味の老婆や、顔は見せないものの*2ズーイー・デシャネルに執拗に連絡してくる勘違い男ジョーイ、なぜかホットドッグ推しの電波系老夫婦*3など、日常に溶け込んでいるちょっとヘンな人々の脱臼したキャラクターにもヒッチコックの刻印を見つけることが出来るかもしれない。さながら自殺博覧会の様相を呈する前半の描写もさることながら、なによりも着目したいのは、通常は目にすることができない即ち映画において表現することが出来ない「風」を「脅威」の表象として採用したところだろう。あからさまなショック表現は随所に見られるが、恐れるべき脅威それ自体はひたすら寡黙で禁欲的なタッチで描かれている。草木やブランコ、家の扉などを日常的な風景を用いることで、「風」を可視化する数々の描写には唸らされる。オープニングとエンディングには空を流れ行く雲の映像が用いられているが、ここで思い出すのがガス・ヴァン・サント『エレファント』で、同じように空を流れる雲を高速再生で捉えた映像がベートーヴェンの『ピアノソナタ第14番』の調べに乗せて用いられていたのが印象的だった。しかし、静謐で美しく一方では不吉な予感も喚起するこのイメージを、エンディングで再度目にしたとき、これが『エレファント』のオープニングよりむしろ『鳥』のそれに近いと感じる。空を行き交う雲のイメージは、本編での「脅威」である「風」を可視化したものだと言え、画面中を行き交う鳥の群れをシルエットで表現した『鳥』のオープニング映像と同じような視覚的効果を持っているからだ。
 でもまぁ、ぶっちゃけね、そんなことよりもぶっちゃけ、ズーイー・デシャネルの可愛さ、である。正確には落ち着かないズーイー・デシャネルの可愛さ、である。序盤、携帯の着信音や夫の帰宅にいちいちビビるデシャネル。終盤、妊娠検査薬の結果をやきもきして待つデシャネル。この2シーンで映画は異様に脱力している。普通の映画では省略されるはずの日常的な所作がこのシーンでは克明に捉えられており、映画はデシャネルの心臓音に寄り添っている。一体何モードなんだこれ、って感じだ。実はこうした違和感はシャマランの映画全般に言えることで、『ハプニング』に関して言えば、他にも主人公のウォールバーグがビニールの木に話しかけたり突然歌いだしたり、ジョン・レグイザモがすごい急に数学の問題出し始めたりと、登場人物がシリアスな場面で急に道化を演じる様子が随所に見られる。パニックに陥るウォールバーグを超アップでスクリーンいっぱいに収めたショットの滑稽味、紛い物のライフスタイルを主観映像で捉えることで我々日常生活の虚構性をも浮き彫りにする(またはそういう訳のわからん深読みを誘発する)モデルハウスの印象も忘れがたい。こうした奇妙で場違いな演出の数々はシャマラン冥利に尽きるが、しかしこうしたシーンの多くは、『ハプニング』のアウトラインを説明するときには省略される部分だったりする。つまり、初めにアウトラインを述べて「これは、こうこうこういう類の映画なのだ」と説明する一般的な映画批評のスキーマでは到底評価を下せない魅力が多すぎるのだ。『ハプニング』で本当に分析されるべきは『鳥』との類似点ではなくて、むしろ先述したような箇所の一見本編とは何の関係もない場違いなシチュエーションの数々だと思うんだよね。僕の場合だとデシャネルの2シーンに異様に持ってかれた、というわけだ。こんなシーンを紛れ込ませやがるから、シャマランお前って奴は。イカレテル!!
 つまり本作は「風」と「デシャネル」である。

*1:自分の中でのこうした立ち位置は実のところクリストファー・ノーランにも通じていたりする。

*2:そこが逆に薄気味悪さを助長しているのだが

*3:温室で流れるのはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番第2楽章!