Devil's Own

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レオス・カラックス『メルド』−マンホールの下に眠るもの


 カラックスがどう思っているかわかんないけど、メルドは僕のヒーローだ。九州の隅っこに住んでいた僕は、東京に憧れる一方でそのシステムやカルチャーを当たり前のように享受し、踊らされる東京都民は吐き気がするほど嫌いだった。東京都の映画ファンなんて最低だ。やれスクリーンで見ろだのミニシアターだのなんだの、シネマヴェーラだのラピュタ阿佐ヶ谷だのなんだの。僕は小さい頃から、まるで自分たちが日本の中心であるかのように振舞う東京人を呪っていた。東京人はみんな死ねと思っていた。憧れゆえの純粋な憎悪と呪詛である。平民が貴族を呪うような気持ちだ。一方で不条理な格差に甘んじて一向に革命を起こす気がない地元民も軽蔑していた。ケータイ小説の世界観を地で行くような閉鎖された平和環境が僕の地元だったのだ。そこはとても心地がいい。どこぞやのブログでそういう不満に対して引っ越せばいいじゃないなんてマリー・アントワネットめいた提案をしている人がいた。正論です引っ越しました僕は。そしてトウキョウを摂取し続けるために就職も決めた。それでも両親の落胆は未だにキリキリと僕を締め付ける。
 『ゴジラ』のサウンドトラックに乗ってメルドが東京を闊歩する。煙草を奪う、お金を食う、子供を泣かす、女の子の腋を舐める。最高だ。胸がときめく。あの馬鹿女、傲慢に写メなんか撮りやがって、そんなことだから腋舐められるんだ。どうせ銀座でショッピングでもしてたんだろ。いい気味だ。
 挙句の果てには渋谷で手榴弾を投げまくり、見るも凄惨な大量殺戮が繰り広げられる。右往左往する「渋谷の若者」、いい気味である。拍手しそうになったがココは東京なのでやめておいたほうがいいだろう。渋谷テロ以降、カラックスは観客を不愉快にさせようとひたすら挑発する。ある意味では、『メルド』はこれまでで最も客を意識した作品になっている。機動隊に確保される場面では普通にちんこを晒すメルドの醜悪な裸体に多くの人が眉をひそめるだろう。メルド→フランス人弁護士→フランス語通訳といいった具合に二度のプロセスを踏まないといけない尋問シーンも見ていてイライラするだろう。裁判の場面も同じような具合に続くものだから、驚きだ。隣のおっさんは鼾かいて寝始めるし、途中退席する客も結構いた。馬鹿だな。腋でも舐められればいいと思う。
 三分割画面で表現されたこの裁判シーンには繰り返して見たくなる不思議な魅力がある。「人間は嫌いだけど生きることは好きなんだよバーカ」とか「日本人は目の形が女性器に似ていて本当に汚らわしい」とか痛快な失言を繰り返し裁判を煙に巻くメルド。馬鹿馬鹿しくてコントめいるのに、奇妙な緊迫感が漂う。メルドの口から、「私の神が(日本に住むように)命じた」とか「お前らは全員で私の母親を強姦した。私はお前らの子供だ」といった抽象的な言葉がこぼれ始め、少しずつ本質が見えてくる。メルドはファンタジーの子どもだ。頭の中は利己的な欲望で満たされ遠くで人が殺されても何とも感じないくせに、そんな現実から目をそらすために無責任なメッセージやその場凌ぎのポップミュージックで自分の善意を補完する。メルドは「無関心」を武装するために作り出された綺麗事の産物だ。劇中のニュース番組*1では、メルドがかつてアルカイダ武装集団やオウム真理教に在籍していたという情報が提示され、メルドは現代日本に住む人々の多くが認識の上で共有している「仮想敵」の具現化だとわかる。地下鉄サリン事件にしても911同時多発テロにしても、本当に怖かったのはその実行犯の多くがあまりに純粋な「善意」に突き動かされて凶行に及んだという点だったのではないか。この仕事を成し遂げればきっと世界は平和になるというファンタジーへの強靭な信念。そして最も戦慄すべきだったのは、そんなファンタジーが僕らの知らない地下で形成されているのを全く知ることなく「平和」に暮らしていた自分達の盲目だったのではないか。忘れもしない911の次の日、何事もなかったかのように「いいとも」が放映されていたことを、芸能人が馬鹿なゲームではしゃいでいたこを。原色の光を放つスタジオセットの向こう側で二つのビルが真っ黒な粉塵をあげて崩れ落ちていったことをもはや誰も気にしていないのかという切実な違和感。やっぱりおかしいよ東京の人はと思ったよ。
 ゴンドリーとジュノのオサレでポップな仕上がりを見る限り、製作側が「Tokyo!」というオムニバス映画に期待していたニュアンスはだいたい想像できる。それをカラックスが見事台無しにしてしまったという、痛快な話だ。イタいもの見たさでチェックしてしまうyahoo映画のレビューサイトを見ると大抵は『メルド』に対して憤りを露わにしている。オシャレで愚かな東京の羊達、マンホールの下に眠っている暗いファンタジーの塊に気がつくことはないだろう。
 あ、せっかくなんで他二作に言及しておくと、『インテリア・デザイン』はゴンドリーっぽさが出る椅子になるまでの話が長すぎてたるい。藤谷文子が椅子になりながら裸で走り抜けるイメージとかもっと面白く出来そうなものだが。『シェイキング東京』は蒼井優が色っぽい。終わり。

*1:キャスターの無表情さにも戦慄する!