Devil's Own

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ホラーはビッチでなければ


 皆さんそうだと思うが、秋の夜長には当然殺人鬼について考える。都井睦雄、小平義雄、朝倉幸治郎、梅川昭美の人生について色々と思いを馳せているうちに夜が明けてしまうこともしばしば。多くの殺人鬼は、殺人さえ犯さなければ誰からも忘れ去られたであろう凡人だ。暗い生い立ちを持った者も多いがだからといって、特別だというわけでもない。平凡でちょっとだけ憂鬱な毎日を歩んでいた人間がある日、逸脱し人を殺すのだ。彼らが歩んだ人生は途端に特別な意味を持って人々の記憶に刻まれる。宮部みゆきの大作『模倣犯』のクライマックスで、残忍な愉快犯に対し被害者遺族である老人が「お前のような人間のクズは、特別でもなんでもない。十年もすればみんな忘れてしまう」というような科白を吐き捨てるシーンがある。殺人犯や犯罪を劇化ないしは美化することでスケープゴートする今日的なマスメディアに対する宮部の抵抗であったように思え、印象に残った。ミステリー作家という、ある意味では殺人鬼を「肯定」しなくてはならない立場にある宮部が、敢えてそれを書いたことにも並々ならぬ覚悟を感じたのだ。ただ、残念なことに人々は殺人鬼のことを長い間記憶にとどめている。殺人鬼の人生はやはり魅惑的なのだ。その証拠に彼らの生涯はしばしば映画の題材となりえる。
 ロブ・ゾンビは、金字塔であるカーペンターのオリジナルをリメイクするにあたって、より殺人鬼の生い立ちを掘り下げることに腐心しているように見える。オリジナルを見たのはもう随分前で、マイケル・マイヤーズが最初に殺人を犯してから再び故郷にカムバックしてくるのと同じくらいの歳月が流れてしまったので、記憶が曖昧だが*1マイケルの幼年時代の描写により多くの時間が割かれていることはわかる。しかし、こうしたドラマ作りが必ずしも成功しているかと言われればそういうわけでもない。少なくとも僕が期待していたような人を殺人へと駆り立ててしまう「狂気」*2や、そうせざつをえない人生へのセンチメントや悲哀は殆ど感じられない。ストリッパーの母親、母親に寄生するニート同然の義父、アバズレの姉貴という息苦しい家庭環境。それゆえにクラスメイトにはからかわれる。マイケルの楽しみは、弱い小動物を殺すことくらい。こう書いて行くと、なんとも安直でステレオタイプなサイコキラーの描き方ではある。少年時代のマイケルを演じる子役デーグ・フェアの豊かな表情がなければ、幼年時代のプロットは世界仰天ニュースの再現VTRのようにひどく陳腐なものになっていたかもしれない。更にマイケルが成長してしまうと、殺人鬼の人生や内面への眼差しは殆ど失われてしまう。ブギーマンが、ローリーに向かって昔の写真を見せるシーンに辛うじて、そうした内面を描こうとする意図が垣間見えるくらいだろうか。ただし、前半に見られた内面描写を一切排し、マスクの内側を殆ど映さない「怪物」としてマイケルを描くことに徹してから物語は俄然ドライブし始める。特に、ブギーマンが本格的にローリーを標的に定めて追いかけ始めてからの展開が素晴らしく、バスルームの曇りガラスや廃屋の壊れた壁などの中途半端に視界を残した、いわば「不完全な遮蔽物」を巧みに用いることで迫り来るブギーマンの脅威をサスペンスフルに盛り上げている。そして壁もガラスも全ての遮蔽物をぶち破りながら闇雲に突進してくるブギーマンも恐ろしい。前半の少年マイケルのイメージとは完全に乖離してしまっている。ロブ・ゾンビの狙いはブギーマンに物語を与えることではなく、むしろそうした一貫性への亀裂、分裂を与えることにあったのかもしれない。
 それから、『悪魔のいけにえ原理主義者の僕としては、女性被害者が軒並みビッチなのもポイントが高い。最初に殺されるマイケルの姉が、床を這いずりながら逃げる場面や、ローリーの友人がドアを飛び出したところでブギーマンに連れ戻されドアがバタンと閉ざされる場面、終盤で何度が繰り返されるヒロイン落下の運動など、オリジナル『ハロウィン』よりもむしろ『悪魔のいけにえ』を連想しながら見ていた。やっぱりホラー映画にはビッチじゃないと。ローリーはビッチとは言えないが、オリジナルよりもやんちゃ度が二割り増しの眼鏡っ子に変更されているのもいい。
 それにしても精神科医役のマルコム・マクダウェルが、マイケルに対して説教する度に「お前が言うな」とつっこんだのは僕だけではないだろう。ロブ・ゾンビなりのブラックジョークだろうか。エスプリの効いたなかなかいいキャスティングだった。

*1:リメイク版を見る前にオリジナル見返そうと思ったのだが、なかなか見つからない。

*2:という大層なものではなく、もっと日常に紛れ込む「魔」のようなものであることが望ましい。