ジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン
- 作者: ヴィリエ・ド・リラダン,斎藤磯雄
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 1996/05/25
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 202回
- この商品を含むブログ (56件) を見る
埴谷雄高、安吾、フォークナー、カルヴィーノ、トルストイ、カフカなど乱読しているのだけれど、最近読んで特に印象に残っているのはジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』である。これは去年のクリスマスイヴにヴィレッジ・ヴァンガードで購入したものだが、別に「イヴだけにねー」とか狙ったわけではない。偶然である。長ったらしい名前からわかるように、リラダンは正真正銘の名門貴族であり、伯爵である。オノレ・ド・バルザックが、貴族を気取って自分の名前に「ド」をつけたことは有名な話だが、リラダンの「ド」は本物である。しかもふたつもある。リラダンは貴族だが、物質社会を嫌い生涯貧乏人に身をやつしていた。浪費家で大喰らいで女たらしのバルザックとは大違いである。ふたりの人生が逆転していたらどんなに幸せだっただろうと思うが、もしそうであったらふたりの数々の傑作はなかったかもしれないとも思う。*1
リラダンは、白水社から出ている『フランス幻想小説傑作集』に『ヴェラ』という短編が収められていて印象に残っていた。同書には他にサド、バルザック、ゴーチエ、モーパッサン、ロデンバック、ロブ=グリエなどの短編を所収しており、どれも味わい深い傑作揃いで個人的に重宝しているのだけれど、その話はひとまず置いておいてリラダンである。
この物語の主人公は、あの偉大な大発明家トマス・エディソン*2である。リュミエール兄弟と並んで映画ファンにとっても一生うだつの上がらない偉大な人だとおもうが、本書でのエディソンはなかなか傲岸不遜な性格で楽しませてくれる。自分がもっと早く生まれていたら、この蓄音機でありとあらゆる声を記録できるのになぁと空想する。例えば、「受胎告知」の天使ガブリエルの声とかイスカリオテのユダがキスする音とか、そういったものを二度と聞けないのは嘆かわしいことだというのだ。それから、自分がもっと早く生まれていたら、映写機でありとあらゆる光景を記録できるのにとも言っている。ノアの大洪水の光景とかクレオパトラの美貌も、今現前のことのように見返せるというのに!今となっては、取り返しがつかないではないか、というのである。蓄音機なんて簡単なものを、なぜこれまで誰一人発明しなかったのか、と罵る。ピタゴラスは?アルキメデスは?ユークリッドは?といった具合に歴史に八つ当たりするのだ。
本書は、そういった天才の独白によって始まるのだがメインとなるのは、エディソンが悩める青年貴族エワルドのために完全ある人造人間ハダリーを製作する顛末である。エワルドには、絶世の美貌と芸術的な肉体を有する恋人アリシヤがいるのだが、このアリシヤの魂があまりに卑俗であるために大いに悩んでいる。どうして、こんなに美しく崇高な肉体の中に、それとは似ても似つかないくらいスノッブな魂が入っているのだろう、何かの間違いに違いない、というのである。なるほど一理ある。そんな経験なら僕にもある。ただ、アリシヤの肉体に対するエワルドの入れ込みようは並大抵のものではなく、最早生きる希望も無いと、自殺まで考えている。さすがにそこまではいかない。
エディソンは、この青年に何らかの恩義があるらしく、アリシヤの生き写しの肉体を持ち、なおかつ崇高な魂を持った人造人間ハダリーを作って見せようと持ちかける。今風にいえば、『僕の彼女はサイボーグ』、である。勿論、エワルドは、そんなロボットなどで自分の心を紛らわせるはずがないと最初はこの申し出を断るのだが、自分の技術がいかに精巧で素晴らしいものであるか、そして現実に存在している女性たちの「実在」がいかに曖昧模糊としたものであるかを同時に論じることで何とかこの青年を納得させてしまう。男女の恋愛というものは、常に互いの幻によって成り立っているものだ。その限りにおいて、相手が人間だろうとサイボーグだろうと関係ないではないか、というのである。エディソンの饒舌な弁舌の中に、シンボリズムに傾倒したリラダンの思想をみることができる。僕は、エディソンやリラダンのように頭脳明晰ではないのでうまく説明することはできないが、たとえば他人のブログを読みながらその向こう側にいる書き手を想像することはごく自然なことだとおもうが、しかし書き手である彼または彼女の存在について確証を得ることは実はとても難しいことだとおもう。もっと身近な問題でいえば、携帯のメールを読んでいるときにその文面が、本当に送り手によって書かれた物なのか。いまでこそなんともなくなったが、中高生くらいのとき周囲の友人達が携帯電話を所有するようになって、人と会話しながらメールしたりしていると無性に腹が立ったものだ。日常的なコミュニケーションは、愛犬ロボ「てつ」*3を本物の犬のように可愛がる老婆と本質的に差異がないということだ。『黒死館殺人事件』のようにペダンティックな意匠に彩られているが、読み進めるうちに不意に恐ろしい深淵を垣間見た気になる不思議な小説であった。
余談だが、押井守『イノセンス』の冒頭でこの本の言葉が引用されている。『イノセンス』が好きな人は多分この小説が気に入ると思うけれど、耽美的な世界観だけを求めると痛い目にあうだろう。