Devil's Own

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『愛のむきだし』、あるいは90sシンドローム


 力作だけれど傑作ではない、というのが正直な感想だ。今日の日本映画で、こんなに荒唐無稽で、エロもグロもユーモアもきっちりと押さえて、なおかつ多くの観客をエンターテインさせるポピュリズムを獲得する。このことがいかに困難なことかはわかっている。*1しかも、4時間の大作である。ここで、この映画の荒々しい野心まで否定してしまうと日本映画はもっともっとつまらなくなってしまうだろう。西島隆弘(AAA)と満島ひかり(Folder)を主役に据えた「アイドル映画」で、ここまで思い切ったことも評価できるだろう。だから、園子温のアティチュードと作品の先鋭性についてはむしろ積極的に肯定したい気持ちだ。ただ、作品としてはどうも素直にノリきれない難点を多く抱えているとおもう。主に不満だったのは以下に整理した三点だが、全体的に深遠に見せているようですごっく内容が薄いと感じた。わかんない、多分中学んとき見たら感動したかも。

浅はかな「変態」

 テーマとして前面に押し出される「聖(禁欲)と性(勃起)」=「宗教と性愛」という対立構造自体が、既に紋切り型であるにもかかわらず、それをこれみよがしに説明しようとする意図が見え見えである。例えば、虫も殺せない純朴な高校生ユウ(西島隆弘)は、神父である父親(渡部篤郎)に「懺悔」するために非行を重ねる。「懺悔」と「罪」の本末転倒する面白さを狙ったのだとおもうが、ユウが「罪が必要なんです」と頻繁に口にすることで、あざとさだけが鼻につき興醒める。非行はやがて盗撮へと絞られていくのだが、ユウは「罪を犯すこと」や「盗撮行為」そのものに魅入られているというよりも、父親とのコミュニケーション手段として行動しているだけに見える。物語上、ユウがリプレゼントしなくてはいけない「罪」や「性」といった要素が決定的に弱いのである。更に、盗撮の最重要目的が、「罪つくり」でも「性欲の充足」でもなく「マリア探し」であることが明らかにされ、本来ユウが担保していたはずの「罪人」や「変態」としての役割は殆ど形骸化する。
 本編でも宣伝でもやたらと変態、変態連呼していたが、ユウは「変態」ではなく「変態キャラ」に過ぎないのではないか。この映画には沢山の「変態」が登場するのだけれど、どのキャラクターも、「渋谷の若者100人」や「丸の内のOL100人」に聞いてきたかのような最大公約数のマスイメージに根ざしており、実に安直で深みがない。そのほとんどが、ロリコンニンフォマニアネクロフィリア、マゾヒスト(というよりメンヘラ)といった具合に簡単にラベリング・カテゴライズできてしまう「凡庸な変態」なのである。極論すれば、この映画に本物の変態は登場しておらず、どの変態もステレオタイプな性嗜好をファッション感覚で身に纏った「変態キャラ」に過ぎない。昨日少し書いたけど、「キャラクター設定」と「人物描写」を履き違えているというのは、まさにこのことで、常識を覆す存在としての異様さ、気味の悪さを欠いている。ストーリーに直接関わらない「エキストラ変態」はそれでいいにしても、主人公のユウは、明らかにそのアイデンティティを変態性に依拠しているのだから、彼の変態としての狂気や偏執はきっちり描くべきだ。盗撮行為が馬鹿馬鹿しくコミカライズというよりも茶化されているために、変態としての罪人としての後ろめたさがまったく感じられないのである。
 園監督によれば、ユウは実在する盗撮好きの友人がモデルとなっているらしい。その友人は、自分が盗撮したビデオ(それもバス停で待っている女性を遠くから撮っただけの地味な映像だったらしい)を園に見せながら、しきりに感想を求めてくるのだそうだ。そこには明らかに常軌を逸した狂気が垣間見える。こうした脱臼を見せるだけでユウの印象は随分と変わったとおもうのだが。ユウの目的は「マリア」=「理想の女性」探しに向いてしまっており、その行動が突飛なだけで、あとは全くもって「凡庸な」童貞高校生にすぎないではないか。
 唯一、「変態」としての狂気を感じさせたのは板尾創路が演じたコイケの父親だろう。表向きは敬虔なクリスチャンであり、地位も名誉もある学もある常識人。しかし家庭内では、娘に対して「お前はどうしてそんなにいやらしい身体なんだ!」と理不尽な怒りをぶつけて、その身体をベルトで叩きつけるDV男に豹変する。板尾が登場したのは数シーンだけで、映画でもゲスト扱いだが、多分に父子相姦を匂わせるこの場面は異彩を放っていた。娘を鞭打つ板尾は、父親として、クリスチャンとして、娘の好色を罰し、諭しているようにも見えるが、同時にサディストとしての淫らな悦びも明らかに感じている。このように両義的な人物造形が、主要キャラクターにこそ必要だったのではないだろうか。ユウの場合は罪を犯したときのスリリングな歓びや他人の下着を覗き見る快感に駆り立てられる様子を、ユウの父親であれば肉欲の罪に堕ちて行く過程を、もっと丁寧に描くべきだった。

演劇的スタイル

「マリア」であるヨーコとの邂逅までを描いたアバンタイトル(といっても1時間近くあったが)は、ユウの饒舌過ぎるモノローグも相まって延々とストーリーダイジェストを見ているかのような、とっつきにくさがあったが、タイトルクレジット以降、ユウとヨーコの運命が交錯する乱闘シーンにきてようやく引き込まれた。劇中で「奇跡」と呼ばれるこの乱闘場面は、この映画のハイライトだろう。ユウ、ヨーコ、コイケのモノローグが応酬し、三つの物語が重なり、爆発する。「この調子で4時間だったらキツイなぁ」と思っていた僕もようやく安心して、入り込むことが出来た。ここからは、加速度的に面白くなるだろう…と思いきやである。
 後半では、こうしたアクションは少なく、登場人物が観念的なセリフをヒステリックにまくし立てる場面がとにかく繰り返される。「コリント十三章」をワンカットで暗唱する満島ひかりは確かに圧巻だが、それが映画的に優れた演出だとはまったく思わない。ユウの盗撮行為が露呈し家族が決裂する場面、勃起したユウの陰茎を切断するようにコイケがヨーコに迫る場面、ユウがゼロ教団*2本部へ特攻する場面、そして終盤ヨーコがユウを「助けよう」とする場面、かなり高いテンションで即興劇風*3に演出されている。なんかそういうのは下北沢とかでやれば?と思った。人によっては、「エネルギッシュな」とか「迫力の」とか呼ぶのかもしれないが、僕にはヒステリックでやりすぎに見える。アヴァンギャルド演劇を延々と見続けているような疲労感があり、なおかつ感情移入できない。*4こうしてユウとヨーコの間にある溝はここまで執拗に、絶望的に描かれるにもかかわらず、ヨーコがユウを理解するようになるきっかけは余りに唐突だ。ベートーヴェンの大名曲の力を借りてなんとなく大団円のようになっていたけれど、かなり拍子抜けした。

90年代的物語の限界

 カルト教団、マインドコントロール、クラブ通い、女子高生、盗撮、カート・コバーン、友だち的な親子関係、家庭崩壊、父権失墜、そして宮台真司…見えてくるのは勿論「90年代」というキーワードだろう。病んでいるようでその内実は空虚で衒学的、それも90年代カルチャーの本質のひとつだったのかもしれない。『愛のむきだし』は、恥ずかしいくらいに真っ当に90年代を総括しようとした映画だ。だから、そのアナクロニズムはどうにも居心地が悪かった。ある人々にとってはノスタルジーを呼び起こす同時代的な主題を正面切って扱っているゆえに、本作の評価はとても難しい。ネットや活字媒体を見れば、『愛のむきだし』が概ね熱狂的に迎えられていることがわかるが、一方でもうゲンナリという人もいるだろう。90年代の意匠をあまりに安易に持ち出しすぎており、しかもこうした諸要素に新たな視点を与えることもないままに、2000年代的な感性(ケータイ小説ドラマツルギー)へと無理やり接続することで、物語の限界が露呈してしまっている。宗教と性愛の対立構造というテーマにおいては『ゲルマニウムの夜』(2005)の方がよっぽど本質に肉迫していたようにおもうし、破滅的な恋愛劇という点では『接吻』(2004)の方がより簡潔でスリリングな形で描ききっていた。しかし、この作品の正当な評価は、10年20年先じゃないだろうか。90年代という異様なディケイドの正体を、われわれはまだ把握し切れていない。

おまけ、どうでもいい不満

 ぶっちゃけ満島ひかりのカッコよさを楽しめれば、本作は元取れたも同然だ。彼女は、『ウルトラマンマックス』(05〜06)でアンドロイドのオペレーター・エリーを好演しており、僕はそこで知っていた。どうせプロフィールにはクレジットされていないんだろうなと公式サイトを確認すると、ちゃんと『ウルトラマンマックス』も表記されている。問題はその次で、総監督:金子修介。うーん…なんか悪しき権威主義を感じるなぁ。別にわざわざ金子修介の名前出さなくていいじゃないか。なんか映画ファンに媚びてるような…。総監督っていっても金子修介が監督したのは4本だけだし、特撮パートまで手がけたのはたったの2本だけである。シリーズ構成は別の人だし、金子修介は「原点回帰」という方向性を決定付けたくらいだと思うんだけどなぁ。むしろ、『マックス』は、スタッフの多さが特徴で、平成ではお馴染みの小中千昭八木毅太田愛などに加え、飯塚敏宏、実相寺昭雄上原正三など重鎮組、更に金子修介三池崇史中島かずきNAKA雅MURAなど初登板も含め、バリエーションに富んだ何でもあり作風が魅力なのだ。『ウルトラマンマックス』論はいつか書きたいと思ってるんだけどねぇ…。

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満島ひかりメイン回の26話『クリスマスのエリー』収録。他にも実相寺昭雄演出回、河合我聞ゲスト回など秀作多し。アマゾンでの斉藤守彦によるトンチンカンな感想は無視していい。

*1:その厳しい条件をクリアして成功した稀有な例が『片腕マシンガール』だが、これもある意味ではアメリカ映画なのだから。

*2:このゼロ教団の描き方もすごく安易で陳腐。

*3:実際にはアドリブは殆どないのだそうだがそのあたりも含めてかなり「演劇」寄りの演出だろう。

*4:勿論、アヴァンギャルド劇がダメというのではない。あくまでこうした映画には向いていないのではないか、という意味だ。