Devil's Own

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『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』


 前作『ゾディアック』同様後半で停滞する印象もあるものの、床の軋みまでクリアに伝わる音響設計や登場人物の心情を掬い取るような的確なライティングなど、フィンチャーの職人気質が発揮された秀作だった。デヴィッド・フィンチャーが、このようなメロドラマ*1を撮ったことを意外だとか残念だとかいう意見もちらほら見かけるが、それはジャンル的な視点にとらわれすぎているとおもう。事実、この映画の全編がフィンチャー的としか言いようのない重苦しく不穏な空気で貫かれている。フィンチャーの興味は、暴力や殺人といった即物的な死よりも、それらに裏打ちされながら生きることへの徒労感や諦念へとシフトしつつあるのではないだろうか。ハリケーンや戦争を背景とすることで、死のイメージは更にその存在を色濃くしている。
 そもそもが、年をとるごとに少しずつ若返っていくベンジャミン・バトンの人生そのものに不吉な徴候があるというべきだろう。彼の「数奇な人生」には明らかに、戦争で息子を失った盲目の時計職人の暗い妄念が刻まれている。また、ベンジャミンの体質は、周囲の人間に対して「生きるということは、少しずつ死ぬことである」という現実を、あるいは「生」と「死」の同義を、逆説的に証明してしまうからだ。ほとんど生まれてから死ぬまで、彼の人生は他人の死によって彩られており、やはり呪われている。しかし、若返る肉体とは裏腹に、彼は確かに「老いている」ようにも見える。いよいよ、死が彼自身の問題として意識されるようになった途端、物語は、ベンジャミンの「数奇な人生」に寄り添うのをやめて、性急に突き放して描き始める。フィンチャーの興味は、死そのものではなく、死にながら生きることへの諦念にあるからだ。終盤の取ってつけたかのような人生賛歌も、ベンジャミンの人生を象徴していた「左回りの時計」がハリケーンの洪水の中に消えていく終末的なラストカットによっていっそう空虚さを増している。きわめて肯定的なニュアンスで、「人生はくだらない」と言って見せるようなフィンチャーの姿勢にとても感動した。
 『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』で、「現代のルイーズ・ブルックスである」と(僕の中で勝手に)評判になったケイト・ブランシェットのメイクが、無声映画ばりに白すぎた気がするが気のせいでしょうか。あと直前まで、ケイト・ウィンスレットが出ると勘違いしていたんだけど僕はどうなんでしょうか。『レボリューショナリー・ロード』*2のウィンスレットはよかったよ。ウィンスレットって、超王道のカリスマ・ヒロインとかより田舎の欲求不満な人妻とかのがハマる気がするね。イングリット・バーグマンとかと同じカテゴリ。
 その他、海上戦の場面でのミサイルの立体的運動や交通事故場面の畳み掛けるカット割も印象深いが、なんか後半がいきなり雑になったような気がするなぁ。とはいえ、満足です。

*1:と言い切るのも抵抗があるが、しかし敢えて言う、「デヴィッド・フィンチャーがメロドラマ!」

*2:超必見。