Devil's Own

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雑文鋭くなって

 昨日からトルストイの「戦争と平和」を読み始めた。新潮文庫、工藤精一郎訳の全4冊である。工藤先生の訳は、ドストエフスキーの「未成年」、「罪と罰」でお世話になった。どちらもものすごく読みやすく、けっこうな分量ながら一週間足らずで読み終えたようにおもう。「戦争と平和」もまだ一巻の半分くらいだが、実に面白い。基本的にロシア文学は訳者に恵まれていると言われていて、ロシア文学作品で訳が難解過ぎる、ということは少ない。ただ、登場人物の名前が長ったらしい上にどれも似通っており*1、その上時と場合によって呼称が変わったりするので、そういう進みづらさはある。僕の場合は、読み進みながら人物相関図をつくるなどしている。一見、億劫に見えるが結局適宜メモを取ったほうが速いのだ。
 「戦争と平和」については今日は置いておくとして、僕が大学4年間でやったことといえば、見たことのあるタイトルの古典文学や哲学書を片っ端から読んでみる、ということだった。映画についても同じだ。これは大学に入る前から決めていた。とにかく知ったかぶりをすることだけはやめよう。実際にオリジナルを*2読破するということに、少なからずオブセッションがあった。なぜなら、僕自身そういう人間が嫌いだったからだ。夏目漱石の「こころ」がどんな小説かは誰でも知っている。だが、「こころ」の中章「両親と私」の話をちゃんと覚えている人は意外にも少ない。というよりも、一大学の文学部生であってもそれを読んだことすらない人はたくさんいた。あの国民的愛読小説「こころ」ですらそうなのだ。
 なるほど、わざわざ「法の精神」を読破しなくとも、モンテスキュー三権分立を唱えたのだくらいいえれば一般人として上等なのかもしれない。でも、僕は、そこでモンテスキューの思想をわかった気になるのは、モンテスキューモンテスキューを研究する人たちにとても無礼なんじゃないか、とおもう。「法の精神」は5ページで挫折した。残念だ。「法の精神」がカバーする領域は、法学にとどまらず政治学社会学とひろい。あきらめてしまった5ページの向こう側には、まだまだ見たこともない景色が広がっている。
 大学に行ってもっと驚いたのは、大学の教授であっても、こうした「古典」のオリジナルを読んでいない人はざらにいるということだ。「『セックスに関する言説はタブーとされ、多くの社会で隠蔽されてきた』とフーコーが言っている」、と大学の教授がいっている*3。まぁもっともらしい話なので、みんな「ふーんそうなんだー」と思う。僕も「なるほど、そうか、確かにそうなのかもなぁ」と中途半端にわかった気になるが、実際に「性の歴史」を読んでみると、フーコーが殆ど真逆のことを言っていることがすぐにわかる。確かに一見するとセックスは抑圧されていたようにみえるが、いやいやしかし、それは単なるアリバイであり、社会はわれわれが饒舌にセックスについて語ることを強要すらしていたのだ!とフーコーさんは言っているのである。はてなの人たちはインテリな人が多いので、そんなこと当然とおもうかもしれない。しかし、「セックスに関する言説は隠蔽されていた」という定説をフーコー的だとおもっているひとは案外多い。実際、「狂気の歴史」「監獄の誕生」の流れからいくと、そういう定説に辿りつくのも自然なのだ。でもフーコーはまだまだ先に行っている。表層的な認識でフーコーの思想を授業でレジュメしている先生は、もうごまんといた。彼らがやることといえば、大きな椅子にどっかと腰を下ろし、学問よりも、学内政治や学会での役職のことを考えるのである。大学には学問を食い物にするひとでなしがわんさかいた。
 まぁ、あと2週間で卒業する人間なのでそんなことはどうでもいい。僕がやるべきことは、自分の卑小さを環境のせいにしてブログに駄文を綴ることではない。おとなしく「戦争と平和」を読むことなのだ。当たり前のことがだが、なんとなく知っているようで知らないことが世の中にはたくさんある。世の中のすべての本を読むことはできない。世の中のすべての映画を見ることもできない。本を読んだり映画をみたりしているときは、とても幸福な気持ちになるが、自分は死ぬまで中途半端にしかそれらを理解できないだろうという深い哀しみを引きずっているようにもおもう。

*1:アンナ・パーヴロヴナとアンナ・ミハイロヴナとマリア・イワノーヴナが同時に出てくるのはやはり困る。

*2:本当は原文で読むのが望ましいのかもしれないが

*3:マジだよ?