Devil's Own

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『レスラー』


 プロレスとヘヴィメタルを馬鹿にしているフシがある。あんなんダサいし頭わりーよ。そういう十代、二十代は結構多いのではないか。映画をとっても、マッチョで暑苦しいヒーロー像には感情移入できず、小学生の時点で『ロッキー』シリーズ*1は完全に馬鹿にしていた。だからこそ、プロレスラーを主役とし、80年代メタルが全編に鳴り響く映画『レスラー』には、頭をぶん殴られたような気がした。
 正直に言うと劇場を出たとき、この映画のラストで素直に感動していいのかが疑問であった。主人公・ランディ(ミッキー・ローク)の救いがたいダメ人間ぶりには呆れる。プロレスに人生を捧げた男の物語は、あまりに無様で、痛々しい結末へと着地した。心臓発作を起こしたのも、娘との関係を修復できなかったのも、仕事がうまくいかなかたのも、すべて自分のせいなのだから、僕はランディを決して可哀想だとは思わないし、まったく尊敬もしない。毎日スーパーで働いているランディの雇い主のほうがよっぽど偉いではないか、とすらおもう。ランディの決死の最終試合を真魚八重子さんが「自殺」だと表現していたが、あれは「自爆」だったとすらおもう。ランディは過去の栄光にすがり、青春の残響の中でしか生きていくことの出来なかった本当の馬鹿なのだ。そんな男の物語に「人生は過酷だ。ゆえに美しい。」なんておめでたい話である。
 それなのに、帰りの電車の中でも、家に帰って夕ご飯を作っているときも、シャワーを浴びているときも、お馬鹿なランディのことが頭から離れない。この映画のひとつひとつのシーンを思い出し、そのときランディが何を思っていたかについて考えてしまう。ベッドに入っても、『レスラー』のことが頭から離れず、ある瞬間、「そうか、ランディはあんな風にしか生きられなかったんだ。馬鹿だったけどそれ以上にやさしい奴だったんだ」と思い至り、堰を切って涙が溢れてきた。そうして、『レスラー』は僕にとってかけがえのない一本になったのだ。
 プロレスもメタルもとうに時代遅れになってしまっている。だとすれば、そこに情熱を注ぐ者たちの実存はどこに行くのだろう。自分の好きなことだけで生きていくことは難しく、おまけに若い連中にはすっかり馬鹿にされている。近所の子どもを呼んでテレビゲームをする場面の歯痒さ、かつてのヒーローレスラーを集めたサイン会の空疎さ、80sメタルにのって踊りながら過去を懐かしむ場面のものさみしさ。そのひとつひとつが、丹念に積み重なっていくことで、ランディの不器用な人生をあぶりだしていく。長らく疎遠になっていた娘と歩きながら、少しずつ関係を修復していくシークエンスは出色だ。
 終盤、ふらふらになりながらも必殺技「ラム・ジャム」を決めようとするランディが一瞬リングの脇を見やり、好きな女*2キャシディ(マリサ・メイ)の存在を確かめようとする場面がある。キャシディはそこにはいない。死を覚悟したランディの試合を見るのに耐えられなかったのだ。試合後のロッキーが、「エイドリアーン!!エイドリアーン!!」と絶叫する場面は有名だが、ランディにはもう名前を呼べる者すらいないのだ。だがこうした状況に対し、ひとかけらの感傷も自己憐憫も差し挟むことなく、むしろ晴れがましい表情すら浮かべながらランディは最後のダイブを敢行する。劇中でメル・ギブソンの『パッション』への言及が見られることからも明らかなように、アロノフスキーはランディをはじめとしたレスラーたちにキリストのイメージを投影しているふしがあるが、ランディの最期は、ドン・キホーテのように愚かしく滑稽だった。僕は、ランディの人生を礼賛しない。ただ、愛する。

*1:特に4とかね。

*2:悲しいことにキャシディは「恋人」ではないのだ!!