Devil's Own

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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、中二病は死んだ!!


 もう既にいろいろなところで優れた洞察が書かれているので、ここで書くのも気が引ける。後年も繰り返し言及、参照されるであろう掛け値なしの大傑作なので、僕も公開中はできるだけ何度も足を運びたい。くだらないテレビドラマの劇場版は、この傑作によって軒並み挫かれることになるだろう。*1快挙だとおもう。
 合唱曲の定番として知られる昭和歌謡「今日の日はさようなら」*2と「翼をください」が流れるシークエンスは多くの人々にとって忘れがたい、鮮烈な印象を残すだろう。この二つの場面だけでも見に行く価値があるが、ロボットアニメ的な直球演出が楽しい弐号機の初戦闘シーンや三体のエヴァが共闘する第8使徒の迎撃戦など必見の名場面が続出する。第2次怪獣ブームとロボットアニメ勃興の過渡期を生きた庵野らスタッフとマイケル・ベイでは、メカニック描写における運動神経に決定的な差があるのだと思わずにいられない。
 新キャラクターの投入を含め、ストーリーに大幅な改変が行われた今作で、ようやくこのリライティングの意図が見え始めた。今作のストレートな物語には、誰もが驚いただろう。非ヒロイックな感性は「エヴァ」を「エヴァ」たらしめていた重要な要因だっただけに、ラストの碇シンジの行動には素直に感動しつつも動揺を隠せない人も多かったのではないか。
 他者と「つながり」を築けないシンジたちのメンタリティーは、「中二病」や「非モテ」といった今日的なタグを獲得することで、皮肉にもそれ自体、予定調和な「つながり」を生み出したようにおもう。「エヴァ」の物語は、もはや「つながり」を拒絶できないくらいの大衆性を獲得してしまったし、シンジもレイもそのアイコンたりえた。だが、他者と「つながれない」ことを必要以上にネタ化するだけの「中二病*3庵野らオタク第一世代では、世間に対するルサンチマンの度合がまったく違っているとおもうのだ。つながりたくともつながれないのではない。予め「つながり」を拒否することで閉鎖的なコミュニティーに安住したいだけなのではないか。そうしたポーズとしての「つながれない」が蔓延する現代において、そのアイコンともいうべき存在だった碇シンジが、他者を肯定し(「綾波綾波だ!」)、積極的につながりを持とうとする(「来い!」)からこそ、この物語は激しく胸をうつのであり、作り直されるべくして作り直されたのだ。
 エヴァの物語が崩壊して十年、僕らも変わったように、シンジやレイもやはり変わっていた。十年以上経って、成長した彼らに再会できることは、物語と僕らの幸福な関係であるようにおもう。次はどうなるか。

*1:ルーキーズ乙でーす。

*2:あの悪趣味な演出には本当に驚嘆した。

*3:草食系男子でもサブカル眼鏡でもなんでもいいのだが。