Devil's Own

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『サブウェイ123 激突』


 いつのまにか大層な「作家」に持ち上げられた感のあるトニー・スコットの最新作。『96時間』には特に言及せず『サブウェイ123』を大絶賛する言説の拠りどころはどこにあるのか。「高度な活劇として一見に値する」ってことですかそうですか。
 ひたすらに漂白され、軽量化された暴力と命。予想どおりというべきか、本当にごくまっとうな普通の映画であった。例のごとくジャジャッジャーン!!シュフォー!!ドーン!!といった感じで進んでいくオープニングはもはやセルフパロディの域で、こうした編集に今更文句は言うまい。問題は、ここに登場する人々がちっとも生きているように見えない、ということではないか。
 人々は、ウォルト・コワルスキーが本当はクリント・イーストウッドだと知っている。ランディ・ラムがミッキー・ロークだと知っている。それでも僕らは、映画を見終わった後にも彼らの「実在しない」人生について、生活について思いを馳せずにはいられない。自分以外の何者かになったつもりでいるモデルたちの身振りを真っ白なスクリーンに映し出し、暗闇の中から息を潜めて覗き見る。そこに映るものは、すべてがはかない幻想のように思えるが、一方で揺ぎない真実に思えてならない。大げさな物言いをしてしまったけれど、そのマジックにこそ惹かれているわけだ。
 一方で、デンゼル・ワシントンが演じるウォルター・ガーバーは、ジョン・トラボルタが演じるライダーはどうか。残念ながら、ふたりの人生は2時間弱の上映時間だけ僕の目の上を通り過ぎ、映写機がとまると同時に消え散ってしまった。ワシントンはどこまでもワシントンであり、トラボルタはどこまでもトラボルタであった。映画に騙されそこなってしまったのだ。
 オリジナルの『サブウェイ・パニック』で、地下鉄ジャックの犯行グループが互いのことを「ミスター・レッド」とか「ミスター・ブルー」といったコードネームで呼び合っているのは有名だ。『レザボア・ドッグス』で引用されたのも周知の事実。『サブウェイ・パニック』の犯行グループには、もうひとつチャーミングな設定があって、全員が同じようなメガネ、付け髭、コート、帽子を身につけているというものだ。これらの設定は、よくよく考えてみればいかにも幼稚でハッタリくさいのだけれど、不思議と映画の中ではクレバーで計算高い犯行手口であるかのように見える。実際に地下鉄ジャックを企てる犯行グループがいたら、そんな粋なコードネームは使わないだろうし、メガネや付け髭のような回りくどいことはせずに素直にマスクなど被るに違いない。ところが、大胆で荒唐無稽な手口を捨て去った『サブウェイ123』の犯行グループの現実感はむしろ薄まってしまっている。リーダー格であるトラボルタに焦点を絞ったものと推測されるが、没個性的な集団だった『サブウェイ・パニック』の犯行グループのほうがよりキャラクターが際立っていた。*1要するに、映画の中のリアリティー構築にとって現実に近いか否かというファクターは実のところあまり重要ではないのだ。肝心なトラボルタは、唐突に激昂したかと思えば、敬虔なクリスチャンを気取ってみたり、経済用語を引用しインテリぶってみたりと性格造形のブレが甚だしい。こうした人格形成の構成要素は最後まで有機的に絡み合うことなく、ひたすらとっ散らかったままなのである。ゆえに、彼と対峙する存在として描かれるワシントンの性格もいまいち定まりきらないし、二人の間に緊迫感やサスペンスが生まれることもない。ここで、『3時10分、決断のとき』を引き合いに出すのは少々酷かもしれないが、トラボルタがワシントンを殺すわけがないと観客は安心しきっているので、ワシントンが電話で妻と会話する(牛乳を買っていく云々)場面も本当なら感慨深いシーンになるはずが、随分間の抜けた印象になってしまっている。
 映画内リアリティーの構築、つまりは嘘をつくのに失敗しているのだとおもう。

*1:そう考えると地味ではあったが、オリジナルの『サブウェイ・パニック』は実によくできた映画だったとおもう。もう一回見たい。