Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『空気人形』


 是枝裕和の新作。ある日突然心を手に入れてしまったラヴドール(ぺ・ドゥナ)が持ち主が仕事に出ている間に東京の街をさまよい、そこで生活するさまざまな人々と触れ合っていく。心を持ってしまったラヴドールという設定から思い出されるのは、金子修介がロマンポルノ時代に撮った好編『いたずらロリータ うしろからバージン』だったりする。実際この映画はセンスのいい映像と音楽でまとめられてはいるものの、かなりの部分でポルノ映画的な特徴を持っていて、たとえばぺ・ドゥナがレンタルビデオ屋の店長(岩松了)に弱みを握られ、次のカットでは犯されているといった展開などは、ポルノ映画の世界では幾度となく繰り返されてきたオーソドックスな段取りである。この映画をぺ・ドゥナを主演に据えたアイドル映画とも捉えることは可能だが*1、劇中のぺ・ドゥナのかわいらしさはどこまでも男性的な欲望の視線に根差している。是枝はどすけべであることが判明した。身体は性的に成熟しているが、精神年齢や知能は著しく低いという空気人形のキャラクター造形には明らかに男性側の少女幻想=ロリコン的欲望が投影されている。彼女のかわいらしさは逆説的に「女の子は少しくらいぼーっとしていた方がいい」という身勝手な女性観を肯定してしまっているかのようだがどうだろう。このような主人公の描かれ方に対して女性がどのような感想を持つのかが少し気になる。
 是枝は相変わらず外国人監督のような手つきで東京の街を映し出していて、おもしろい。リー・ピンビンのカメラも空虚で現実感のない都市としての東京を表現することに貢献している。「こころ」を持たざるぺ・ドゥナの視点を通して、そこで生活する人々の「こころ」の不在を群像劇として描こうとしているのだが、その試みが必ずしも成功しているとは言いがたい。ラヴドールを恋人に見立てて暮らす中年の男を板尾創路が演じているのだが、「恋人と別れてさみしかったんだ」などとせりふで説明してしまっていて興醒めだった。本当にラブドールを恋人にして暮らしている人に失礼ではないだろうか。このように劇中のどのキャラクターも、それぞれわかりやすい「事情」のようなものが用意されているので、実に陳腐で紋切り型になってしまった。*2そんなことだから、ラストに引用される吉野弘の詩も、「等身大のしあわせ」みたいな、実に辛気臭い人間賛歌に矮小化されてしまった感がある。基本的に是枝は人間の悪を描くことに長けた作家だとおもうので、題材があまり向かなかったのではないか。彼の作品は少しずつ一般的な娯楽映画へと向かいつつあるようなので、今度はエンターテインメントに徹したスリラーや怪奇映画を撮ってほしい。

*1:そもそもポルノ映画もアイドル映画の一形態だともいえる。逆もしかり。

*2:そもそもキャラクターに実在感がないというか。レンタルビデオ屋の店員がなぜ東京タワーが一望できるウォークインクローゼットのついたマンションに住んでいるのか。