Devil's Own

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『イングロリアス・バスターズ』


 普段読んでいるブログを見て回ると既に幾多の感想が述べられているのだが、いずれも面白い。タランティーノの映画には観る人までもファンタジーの世界に引きずり込んでいくような求心力がある。この映画に関する言説を眺めていて、「バスターズがナチを蹴散らす痛快戦争アクションを期待していたのに裏切られた」という意見があり、これに対し「馬鹿じゃん!面白いのはそこじゃねーよわかってねーな」という意見がある*1。果たしてこれは戦争映画でないのか。無間地獄のごとく連鎖する暴力と殺戮があり、騙し騙され裏切り裏切られるもの同士の緊密なダイアログがあり、善悪の枠組みに収まりきらない力学の衝突があり、苛烈な運命の中で散っていく若者たちの恋がある。こうして書くと紛れもない「戦争映画」の佇まいである。この映画の中に『特攻大作戦』、『生きるべきか死ぬべきか』、『死刑執行人もまた死す』、『愛する時と死する時』といった反ナチス戦争映画の痕跡を見つけることも容易だ。しかし、なるほど『イングロリアス・バスターズ』はそのどれにも似ていない。本作は、幾多の「戦争映画」が近親相姦の末に産み落とした鬼っ子ではないか。戦後アメリカで、B級活劇のインスタントな暴力とセックスの洗礼を受けたタランティーノが、文字通り命懸けでナチスから逃亡したラング、サーク、ルビッチと同じようにナチスを描くことなどそもそも不可能に決まっているのだ。『ワルキューレ』にはその自覚が足りなかったが、タランティーノはある種の開き直りでこのハンディキャップを克服している。よく知りもしない「史実」に従うよりも、徹底的にフィクションに淫することを選んだのだ。結果、ナチスは知的に映画を語るいけすかないシネフィル集団へと生まれ変わり、バスターズは野蛮で露悪的なボンクラ映画狂としてこれに立ち向かう。こうして第二次世界大戦は、国土ではなく映画をめぐる闘争となった。だがしかし、P.W.パブストとアントニオ・マルゲリーティを同時に愛するように、タランティーノの愛憎はあくまでその両方へと注がれる。優雅で知的なランダ大佐(クリストフ・ヴァルツ)と粗暴で頭の悪いアルド・レイン(ブラッド・ピット)は等しくタランティーノの歪んだ自己像ではないか。フィルム、スクリーン、客席、観客・・・映画をめぐる総べてを焼き尽くしていく「業火」を逃れてこのふたりが生き残るのはなんだか示唆的だ、と書くと少し衒いすぎだろうか。スクリーンに投影される復讐の顔が、まったくもってグリフィス的であることもまた単なる偶然か。いずれにせよ「これが最高傑作だ」と観客に向かって高らか宣言するラストカットには、自惚れと自己嫌悪を越えた映画へのゆるぎない意思がある。
 一緒に見に行ったid:SomeCameRunningさんが、映画を見た後に指摘していて、はっとさせられたことが*2、自己誰何をめぐるドラマについてである。*3例のごとくこの映画でも、脱線に脱線を重ねながら延々と続く会話劇が演じられるのだが、その多くが「わたしはだれでしょう?」という問いかけを背景としており、サスペンスの持続に大きく貢献しているのだ。「ユダヤ・ハンター」や「アルド・アパッチ」「ユダヤの熊」などあだ名についてのやりとり、自分と他人を何かに付けて俳優や著名人に擬えるひとびとの奇妙な習慣、そして地下酒場での自分あてゲームに至るまで、登場人物は強迫的なまでに「名前当て」に執着している。そして、ランダ大佐は、「名前当て」の遊戯に最も長けたいわば探偵役としてこの物語の頂点に君臨している。彼自身も自らの名前を熟知しており、冒頭の農夫との会話で既にその優位性が示されているのだ。そのため終盤、自らの名前を忌み嫌い、捨て去ろうとしたときに初めて、彼は引き摺り下ろされる。この映画において「わたし」を脱ぎ捨てることは許されないといわんばかりに、ランダ大佐は消えないスティグマを額に刻まれるのであった。

*1:はてなではこっちが多数。

*2:ロッテリアで、それこそタランティーノ映画のようにだらだらと喋り倒したのだった。楽しかったなぁ。

*3:詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20091126