Devil's Own

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『(500)日のサマー』/『かいじゅうたちのいるところ』

 しばらく映画の感想が途絶えてしまったのはツイッターが便利すぎるから、という理由だけではない。今年になって見た2本の新作映画は、僕の心のとても深いところまでずかずかと踏み込んできて、内側から激しく揺さぶってきた。とてもじゃないが、客観的でいられないのだ。映画へのパースペクティブをすっかり狂わされた僕はたいそう動揺してしまい、まったく感想が書けなくなってしまった。こうした「個人」にかかわる映画体験は年に一度、あるかないかくらいの貴重かつ稀有なものだろう。ブログでいろいろな感想を見ていると、どうやらそんなふうに感じているのは僕だけではないようだ。『(500)日のサマー』と『かいじゅうたちのいるところ』は、どちらも夢見がちでとろけるような多幸感に満ちあふれているが、同時にほろ苦い感傷と寂寥を伴う。2本の映画を見る体験は、楽しくて輝かしい日々をなつかしく思い出す感覚に似ている。どうして僕たちは、想い出をひっぱりだしてしまうのか。楽しい日々は永遠に続くとさえ思っていた。ふたつの映画には、こうした想い出を拾い上げたとき、同時に湧き上がってくる小さな痛みが詰まっている。その意味でこの2本はまぎれもなくリアリズムの映画なのだ。

(500)日のサマー


 ジョイ・ディヴィジョンの黒Tシャツに身をつつみ、通勤中はスミスを聴き、カラオケではピクシーズとクラッシュを熱唱する主人公トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)に、すっかり感情移入してしまう人もいるだろう。かくいう僕も恥ずかしさで圧死しそうになってしまった人間のひとりだが、この映画が見る者の心に迫ってくる要因はもっと別のところにあるのではないか。冒頭で"This Is Not Love Story"と宣言されるとおり、物語は大文字のラヴロマンスとはかなり異なる。現実からのダイナミックな離脱よりも、あくまでパーソナルな体験に寄り添うのだ。恥ずかしさともどかしさに胸をかきむしるような失恋をした人間なら誰もがこの映画を愛さずにはいられないだろう。シナリオを執筆したスコット・ノイスタッターマイケル・H・ウェバーは映画史の中で繰り返し描かれてきた「運命の恋」の実在性を正面きって描いてみせた。映画史の中の恋人たち、どんなに厳しく過酷な困難も、手を取り合い寄り添いながら乗り越えていったあの愛すべきふたりは果たして現実に存在しうるのか。劇中でも引用される『卒業』の、どこか不穏なラストは本当に「ハッピーエンド」なのか。映画はこの問いかけ一点のみをエネルギーとしながら突き進んでいく。ゆえに、主人公のふたりは徹底的に「ふつう」でなくてはならない。なるほど、エレベーターでスミスを聴いていると憧れの女の子が話しかけてくるだとか、コピー室で濃厚なキスを交わすだとか、突飛な出来事も頻出するが、これらはその後に起こる「凡庸な失恋」を描くためのエクスキューズにすぎない。実際アウトラインだけ見てみれば、物語は驚くほどありふれてつまらない失恋譚である。「等身大」という言葉は好きではないのであまり使いたくないのだが、この映画が目指したものはそれに近いものがある。「等身大」の青春映画など往々にして退屈なものだが、そこにクリストファー・ノーランメメント』の手法を移植することで、この映画は大きな飛躍を遂げた。ありふれた500日間をランダムだが緻密に並び替える作劇が、瞠目すべき効果を上げているのだ。ミュージッククリップ作家という出自を持つ監督マーク・ウェブの洗練された映像センスも、非直線的な物語を描くのにうまくマッチしていた。初体験の喜びをミュージカル仕立てで演出してみたり、理想と現実のギャップを二分割画面で表現するといったアイディアは目新しくはないものの、思い返さずにはいられない場面だ。現代の言葉で生まれ変わった『ローラ』。
追記:マーク・ウェブは新しい『スパイダーマン』シリーズの監督に正式決定したみたい。ちょっと楽しみだー。

かいじゅうたちのいるところ


 モーリス・センダックの絵本をスパイク・ジョーンズが映画化と聞いたときは胸が弾んだ。トレイラーを見ると、もこもことした質感のかいじゅうたちが自在に動き回っており、それぞれが驚くほど豊かな表情を見せていて、ますます興奮した。「おかあさんといっしょ」や「セサミストリート」などを思わせる児童向け人形劇のアナログな身体表現と、CGによって追加されたかいじゅうたちのデジタルな感情表現が見事に融合している。スパイク・ジョーンズは、センダックの絵本世界の映像化において、最高の仕事をしたといえるだろう。かいじゅうたちが登場する場面は終始「動いてる!」という原初的な快楽に満ちあふれていて、いつまでもこの映画を見ていたいという気持ちにさせられる。一方、新たに付け加えられた独自の展開はどうか。大人たちの抑圧から逃走した少年が、かいじゅうたちの島へと辿りつく。そこにはルールも秩序も存在しない。ただ「かいじゅうおどり」の狂騒があるだけだ。こうした原作独自のダダイズムに魅せられていた人にとって、今回の映画は原作とは真逆の印象があるかもしれない。映画におけるかいじゅうたちは、みんなで踊ってハッピーとはいかない。彼らには彼らの政治と衝突がある。マックスは、かいじゅうたちの王様となることで、人と人が関わりあう困難さと痛みを知っていくのだ。王様=保護者という認識が、原作と大きく異なった点ではないだろうか。原作ではマックス少年はあくまで、破壊と無秩序の王として君臨していたはずだ。しかし個人的には、少年の成長譚として生まれ変わった今回の映画化を評価したい。かいじゅうたちの島からマックス少年が旅立つシーケンスがとても美しく、忘れがたいからだ。関係性の痛みから逃げていては結局何も解決することは出来ない。その苦味を飲み込んだうえで、マックス少年はかいじゅうたちの島を後にする。みんな寂しさを抱えたまま、さようならの咆哮だけが響き渡る。その余韻に胸うたれた。
人生をいくつかのチャプターに分けたときに、「初めての恋」と「子ども時代」はとりわけ眩しい日々であるようにおもう。たいていの場合そこには、叶わなかった願いや守れなかった約束が山ほどあって、思い返すだけで、切なくて惨めな気持ちになってしまう。当時は無邪気に信じていたけれど、世の中には、願いが叶わなかったり約束が果たせなかったりすることが沢山ある。だが、それを受け入れることは決して悪いことではないのだ。2本の映画を見ると、そのことがよくわかる。