Devil's Own

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『ラブリーボーン』/『インビクタス/負けざる者たち』

 時間がないので、ざっと書き留めた感想をつらつらと。ほかにもいろいろ見たのだが、『ボーイズ・オン・ザ・ラン』については原作を読んでからいずれ感想を書くかもしれない。書かないかもしれない。結局、ジャック・ロジエのことで頭がいっぱいなのである。

ラブリーボーン


 14歳で殺された*1少女スージー・サーモン(シアーシャ・ローナン)が、この世とあの世の狭間=in betweenから残された家族や恋人、そして犯人の様子を覗き見る。『ラブリーボーン』は「死者の視点」からの物語という原作の方式を一応はそのまま引き継いでいる。しかし、この「死者の視点」なるものがそもそも映画に適していないのではないか。『サンセット大通り』のようなフラッシュバック形式ならまだしも。フォーマットが小説であれば、実体を持たない観念的な存在としての「語り手」を理解することができる。したがって、超越的な存在である死者や神を語り手とすることも可能なのだ。というよりも多くの場合、語り手は小説の中の世界には介在しない*2。語り手は書き手であり同時に読み手でもあるからだ。これを映像化すると、いやがおうにも語り手が実在性をまとってしまう。なんとか頑張れば生き返ることができそうな気さえしてくる。本作の魅力はシアーシャ・ローナンに拠るところも大きいので、ますますその実在性が浮き立ってしまった。ゆえに主人公が巻き込まれた事件の悲劇性がいまいち響いてこない。たとえば「おろち」のように超自然的な存在として描いてみるとか、方法はあったとおもうのだ。さらに『ラブリーボーン』は、死者の物語を主軸としながら、残忍で陰湿な殺人犯をいかにして捕まえるのかというデヴィット・フィンチャー的なサスペンスの要素と、悲劇に見舞われた家族の破綻と再生を描くメロドラマの要素を接合しようとしている。結論からいえば、ふたつの要素は完全に乖離しており、たとえば主人公の妹が犯人の部屋から決定的な証拠を持ち去るという緊迫したシーケンスの後、家出をしていた母親が帰ってくる様子がなんの前触れもなく情感たっぷりに描かれたりしてずいぶん調子を狂わされたりするのだ。どのシーケンスもそれなりによく出来ているだけにもったいない。アメリカ郊外の家族像や死世界の描き方などから『ポルターガイスト』を想起させたりもするのだが、僕は『ポルターガイスト』における日常生活の描写がとても好きで、トビー・フーパーはホラーだけではなくてホームドラマでもそつなくこなせるんじゃないかと思っている。そして、実を言えば『ラブリーボーン』も、スージーが殺されるまでの冒頭1幕目が特にすばらしかったのだ。誕生日に買ってもらったカメラで写真を撮りすぎて叱られたり、小枝を喉に詰まらせ窒息した弟を車に乗せて病院まで運んだり、インド系のクラスメイトとキスしそうになったりといったエピソードを描く手つきには無駄がなく充実している。正直に言えば、このおかしくも眩しいサーモン一家の日常だけでも、このキャストとスタッフなら傑作になっていたような気がする。タバコをふかしながらセックスや死についてあけすけに語る祖母の人物像などはいかにもアメリカ映画的でありちょっとなつかしい。こういう家族映画だってずいぶん見ていない気がするのだ。

インビクタス/負けざる者たち


 本作をイーストウッドの新作として観ることはむずかしい。作家主義が個人崇拝と履き違えられているとするならば、そうした状況をはっきりと拒絶する映画として今回の『インビクタス』があるのではないか。たとえば、これまでのイーストウッド映画でたびたび問いかけられてきた「正義と暴力」の帰結として『グラン・トリノ』を捉える見方があるとおもう。そして、こうした見方への賛否両論を黙らせるような勢いが『インビクタス』にはある。なにしろ、プログラムに掲載されているイーストウッドのインタビューからしてすごい。「30作目としての感慨は?」と問われれば「特にないね(笑)」と答え、「映画に託した思いは?」と問われれば「わからないな(笑)」と答える。この(笑)がくせ者なのだ。イーストウッドは、僕らにはとうてい及ばないくらいおおらかでやさしい肯定の彼岸にいるような気がする。モーガン・フリーマン演じるネルソン・マンデラがふたりのガードマンを引き連れて朝の散歩に出かける。すると後ろから「ただならぬ雰囲気」を漂わせたバンが近づいてくる。ガードマンも「ただならぬ雰囲気」を感じ取り、映画全体が「ただならぬ雰囲気」を帯びはじめる。バンは三人を追い越したあと曲がり角で停車し、中から「ただならぬ雰囲気」の男が登場し、ただ朝刊を置いて去っていく。いったい何なんだろうか。しかもこのような意図的な肩透かしが、クライマックスでも反復されるのだ。大胆にも911の記憶を参照しながらである。観客は脱力するほかないが、おそらくイーストウッドはこうした反応を前にしても痛快に笑い飛ばすのみであり、けろりとして次の映画にとりかかるのだ。そうに決まっている。

*1:レイプされた事実は映画化にあたってオミットされている。

*2:「わたし」など一人称を主語とする文体でない限りは