Devil's Own

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『スイートリトルライズ』

  
 矢崎仁司の新作。前作、『ストロベリーショートケイクス』では、ほとんど偽悪的とすらいえる表現で「現代の女性たち」を切り取ってみせた。意図して記号化されたキャラクターたちは即時的に陳腐化していく運命にある、ともいつか書いたとおもう。『ストロベリーショートケイクス』はおそらく今見るとさらに凡庸で不愉快な映画に見えるかもしれない。江國香織の小説を映画化ときいて不安がなかったわけではないが、はたして矢崎の力量は本物だった。ある人々にとっては憧憬の、またある人々にとっては冷笑の対象であるいかにも「洗練された」江國の小説世界がここでは再現されている。真っ白なテーブル、アルコールランプ、テディベア、捩子式時計など一見して瀟洒な小道具に彩られてはいるが、その空虚さはどうだろうか。こうした世界の中心に鎮座している瑠璃子(中谷美紀)の浮世離れした存在感は、ほとんど幽霊ですらある。誰も傷つかない無菌の空間の中で、瑠璃子がひそかに育てているジャガイモの芽の禍々しさにも戦慄する。瑠璃子は、ジャガイモの毒ソラニンを使っていつか夫と心中しようかしら、という他愛もないファンタジーに興じている(いらいらする女!)のだが、後に夫の妹である文(大島優子)に「ソラニンでは人を殺せない、せいぜいお腹をこわす程度だ」と一蹴されてしまう。このときの中谷の動揺した表情が実にいい。甘いファンタジー世界の中に安住しようとする主人公は、人とのかかわりにおいて、現実の身の蓋もなさを暴露されていく。この映画は、虚飾にまみれたファンタジー世界に身を置く女が、醜く不自由な肉体を取り戻す物語とはいえないだろうか。存在感の希薄な中谷に対し、旺盛な食欲と性欲を体現する池脇千鶴*1の充実した「生」も印象的だ。この映画に出てくる男女はなにかにつけて気障で浅はかなので見ていて苛々しないわけではないが、自然光を活かしたやわらかな照明が等しくすべて人々に注がれている。こうした男女への眼差しはどこかエリック・ロメールの映画のようでもあった。気分としてのミニマリズムが昨今の日本映画の悪癖としてあるとおもうのだが、『スイートリトルライズ』はこうした流れから間違いなく一線を画している。

*1:役作りのためなのかかなりぽっちゃり。