Devil's Own

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『運命のボタン』


 今回は結末に触れているので注意してください。日常生活でいろいろと悩みも多い夫婦のもとにひどい火傷で顔が半分くらい抉れている初老の紳士が訪ねてくる。彼は大きなプッシュ式ボタンのついた箱型の装置を差し出し、押してみないかと持ちかける。そのボタンを押すと、100万ドルを手に入れることができるが、一方で自分に無関係の人間がひとり死ぬという犠牲もあるのだという…と、なにやら「笑ゥせぇるすまん」めいたあらすじだけでも十分に興味をそそられるのだが、初老の紳士の正体と目的が徐々に明らかになるにつれて物語はたいへん凡庸で退屈なものになってしまった。実際に自分のもとに初老の紳士が訪ねてきてこのような提案を持ちかけてきたとしたら、まず何の目的があるのかという疑問は自然にわくだろうし、なにやら自分の良心を試されているようで、ちょっと不愉快な気持ちになるとおもう。おおかた予想通りというべきか後半になるにつれて、初老の紳士は、人間たちが利己的であるか利他的であるかを判断する「実験」としてこのようなボタン装置を活用していることが明らかになる。新人類だか宇宙人だかわからないが超自然的なテクノロジーを持つ他者が、人類の行いを審査するというアイディア自体に、正直言って違和感を覚えるのだが。ここ最近のSFドラマの作劇として、「審査される人類」というアイディアも急激に増えてきたように感じる。たとえば、平成ウルトラシリーズをとってみても宇宙人や超古代文明人によって人類が試されるようなエピソードが頻繁に登場する。たいていは、人類にはまだ悔い改める心があるということがわかって丸く収まったりするのだが、まったく大きなお世話である。そんなものは一方的な論理の押し付けでしかないし、たいへんな欺瞞だとおもうのだがどうだろう。この映画でも、老紳士が夫婦に向かって「あなた方の行動は尊敬に値します」というようなことを言いつつ、夫婦にとんでもない代償を払わせようと選択を迫るのだが、こういう傲慢なことを言うやつはさっさと撃ち殺すべきなのだ。人間の利他性、利己性といった問題を超人的なキャラクターに委託するような作劇はとても安易だとおもうし、作り手の原理主義的なマインドが伝わってくるようでどうも苦手だ。というわけで今回はめずらしくネガティヴな感想を書いてしまいました。図書館で古いフィルムを見てみたりだとか、キャメロン・ディアスの片足がつぶれてしまっていたりだとか、周囲の人が唐突に鼻血を流し始めたりだとか、いろいろと不吉なイメージで物語を紡いでいく語り口は好きだったりするのだが。これをシャマランが撮っていたらなと思わずにいられなかった。