Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『戦闘少女 血の鉄仮面伝説』


 3角マークの東映映画に、3人の美少女を主役に迎え、3つのチャプターを3人の監督がそれぞれ演出している。エンディングテーマを歌うのは3ピースガールズバンドのnoodles。もうほとんど信仰にも近い「3人組」へのオブセッションがこの映画をドライヴさせている。女の子がふたり集えば、そこに秘密が生まれ、3人集えばもう誰にも邪魔することのできない聖域が生まれる。誰が何と言おうとそういうものなのだ。いつだって3人の女の子は最強だ。実際ヒロインを演じた杉本有美高山侑子森田涼花の3人のバランスと佇まいはすごくいいんだよね。この3人の活躍がもっと見たい、続編が作られるならぜひまた見たいと思わせてくれる。それだけで大成功といえるのではないか。個性の強い監督たちが各チャプターを分担することで、一貫性が失われてしまうのではないかという懸念もあったが、それぞれの持ち味を引き出しながら、井口昇がうまく舵を取ってみせた。『グラインドハウス』のどこを切ってもタランティーノの刻印を見つけることができたように、本作も徹頭徹尾井口昇の映画になっていたとおもう。相変わらず女の子のおっぱいやお尻から武器が飛び出してくる。こうした表現を悪のりと言ってしまえばそれまでかもしれないが、井口たちの興味はつねに女の子を美しく撮ることに向けられており、その眼差しは真剣そのものである。私は、日本刀のついた乳房を振り回すメイドさんとチェーンソーが飛び出したお尻をくねらせるチアガールが死闘の末に若い命を散らす展開に切ないものを感じるし、いやに胸をうたれるのだった。一方、三人の監督に力学が分散されたことで、井口昇作品特有の強靭かつ濃密なドラマ性は薄まってしまった印象もある。井口昇の作品においてバイオレンスやコメディは付加要素でしかなく、その本質はメロドラマにあるのではないか。彼の映画の多くでは、美少女たちがはからずも血みどろの闘争に身を投じていくことになるのだが、そこには殆ど呪いめいた不可抗力として「血」の歯車が働いている。『片腕マシンガール』における家族を殺された者たちの怨念の連鎖、『ロボゲイシャ』における姉妹の愛憎劇も凄絶だったが、本作における少女たちも「ヒルコ」としての潜在能力を予め与えられており、その宿命から逃れることができない。たとえいじめっ子達を簡単にねじ伏せることの出来る潜在能力をもっていたとしても、女の子であればそんな物騒な能力を覚醒させることなく、平凡に人生を送りたいものだ。本作に登場する少女たちも、平凡でいられなかったことへの哀しみをどこかで引きずっており、こうした哀しみの描出にこそ井口の真骨頂があるとおもうのだ。だから個人的には、主人公を最初に襲う商店街の人々の狂気や見世物小屋に売られた高山侑子の過去など陰惨なドラマを井口昇にきっちり描破してほしかったとおもう。