Devil's Own

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『アイアンマン2』


 おもしろすぎ。『ダークナイト』や『スパイダーマン2』のようにドラマ面において前作よりも飛躍的な向上を見せる、ということはまったくなく(笑)でも、そういうところに『アイアンマン』ならではのチャームがあるとおもうんだよね。いろいろ詰め込みすぎて消化しきれていないという意見もあるようですが、そこまで気にならず、私がこの作品に求めるものはすべて描かれていた。これが『スパイダーマン』シリーズだったらダメって言うかもだけど。
 『アイアンマン』の魅力はドラマではなく、無敵のパワードスーツで武装するというモチーフそのものにある。第1作は、トニー・スターク(ロバート・ダウニー・Jr)がスーツを改良していくプロセスを、まるでプラモデルか何かを組み立てていくかのように丁寧に描出することで、男の子マインドをがっちり鷲掴みにしてみせた。今回はといえば、もう完全にミニ四駆大会である。男たちは自分なりにカスタマイズした入魂のパワードスーツを身にまとい、「俺のスーツどーよ」と見せびらかしあうのだった。彼らにとって、世界平和などは二の次であり、いかにかっこよく強そうなパワードスーツを完成させるかという卑しい自己顕示欲のみが起動力となっている。まったく馬鹿なやつらだ。だがこうした彼らの姿に、ステロイドを打ちまくりながら強迫観念的な肉体改造にいそしむアメリカ人の性質が期せずして暴かれているようにもおもえる。ハワード・ヒューズをモデルにしたとおぼしきトニー・スタークの過剰なキャラクターは、こうしたアメリカ人像の頂点ともいえるだろう。誰よりも強くてカッコいい存在として人々に認められること、その一点のみにトニーの実存がある。アイアンマンとして世界中の注目を集めることによって得られる強烈な全能感と自己実現の感覚は麻薬か何かのように彼を蝕み、破滅させていく。ふつうのヒーロー映画であれば、こうした利己的な欲望と利他的なふるまい(正義の実践)とを、いかに折り合わせていくかがキーとなってくるのだが、トニーは命の危険を冒しながら、結局アイアンマンとしての自己像を捨て去ることができない。アイアンマンをやめることは彼にとっての自己喪失にほかならないからである。それは、ブルース・ウェインやピーター・パーカーがもつ「自己犠牲という名の狂気」よりもむしろ、プロレスラーとしての栄光にすがりつづけるしか生きていくことのできないランディ・ラム(『レスラー』)の哀しみへ近接している。そう考えると、ミッキー・ロークが演じる敵役イワン・ヴァンコが「トニー・スタークになり損ねた男」として描かれていることも奇妙にリアリティーを帯びてくるのだった。
 スーツケース型のパワードスーツやiPadどころではないシームレスでかっちょいいラボのデジタルインターフェースなど、ぐっとくるガジェットは相変わらず健在。あと個人的にこのシリーズは、ペッパー・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)とのトニー・スタークの「そこは中学生かよ!」な恋愛模様も見所のひとつなのだが、こうしたラヴコメ要素も前作より巧く効いていたとおもう。ペッパーがほかの男性と話そうとするとトニーがかなり無理やり割り込んでくる場面とか(しかも気に入った女の子を新秘書にしている自分のことは棚に上げて!)、イチゴが「特別」だったことだけを覚えていたトニーがお土産に買っていくんだけど実はペッパーはいちごアレルギーですごく気まずくなる場面とか。最後キスしちゃうけど、ふたりの甘酸っぱすぎるロマンスは正直もっと引っ張って欲しかった。
追記:ローズ中佐役のテレンス・ハワードが降板したのは残念でならない。いつもトニーのペースに巻き込まれちゃう情けなさがドン・チードルだとちょっと足りないんだよね…。