Devil's Own

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『トイ・ストーリー3』


 もう上記の写真を見つめているだけで泣けてきてしまうわけだが…。いや、本当に脱帽しました。『トイ・ストーリー』の第一作は私が10歳の頃に公開された。私の場合、出会い方が少し特殊で、映画館に足を運んだのではなく公開時に発行されたノベライズ本を読んだのである。小学生としてはなかなかの読書家だったと自負しているが、本当におもしろいなと感心したことをよく覚えている。特に終盤の展開にはのめりこみ、この話がいかに面白いかを父親にとうとうとプレゼンしたほどだ。つまり私は、当時画期的な試みであったフルCGアニメーションのヴィジュアルよりむしろ、物語の出来そのものに惹かれていたのだった。今見ても『トイ・ストーリー』のシナリオは非の打ち所がない。私の中で『トイ・ストーリー』の物語は少年期のまっさらな感受性に裏打ちされたひとつの完成形として位置づけられている。ピクサー作品にとどまらず、アメリカ映画という枠組みにおいても屈指のシナリオとすらいえるのではないか。そんな「完全なる物語」に続編を作るということ自体、大きな危険を孕んでいたとおもう。第一、「めでたしめでたし」のつづきに言及することほど野暮なものはない。そんなこと誰も知りたくないし『ノートルダムの鐘2』なんて言われてもね…。「めでたしめでたし」につづきがないからこそ私たちは安心してファンタジーの世界に身を浸すことが出来るのではないか。ピクサーはそのタブーへと果敢に踏み込んでいった結果、これ以上ないほど誠実な答えを示して見せてくれた。『トイ・ストーリー3』は、単純に三部作の「完結編」というだけではなく、私たちと物語のたえまない関係性をめぐるひとつの到達点とすらいえる。「完結した物語」の後になおも物語を紡ぎつづけることが可能なのか、という問いにピクサーは以前から意欲的に取り組んできた。『WALL・E』は人類の永続的な生命のサイクルからの逸脱をこころみる物語だといえるし、『カールじいさんの空飛ぶ家』も冒頭の美しく完成された人生から新しい一日を始めることをテーマとしている。ピクサーがこうした物語論の総決算として、自らのマスターピースである『トイ・ストーリー』を選ぶことはたいへん自然な流れだったとおもう。おもちゃを使って一人遊びするアンディーは、「物語欲」ともいうべき不可解なそして素敵な魔法にとらわれたすべての人間の映し鏡だ。かつて誰もがこのような一人遊びを通して、想像力を羽ばたかせていたとおもう。だが、人はいつしかおもちゃを捨て、物語をあざ笑うようになる。いや本当は好きで好きでたまらないのに、現実があまりに身も蓋もないから見ないふりをするというべきか。そこに甘くて心地よいニヒリズムのわながある。私も、「大人になること」と「豊かな想像力を捨てること」を履き違えたニヒリストにたくさん会ったが、誰もそれを「悪」と呼ぶことはできない。本編に登場するロッツォ・ハグベアにはこうしたニヒリズムが集約されている。まぁ、残念ながら現代の消費社会をより賢くサバイヴしていけるのは、こうしたニヒリストたちだともおもう。そういう人たちは、子どものころ遊んだおもちゃを「ガラクタ」と呼ぶが、私はアンディのように自分のおもちゃを手放すときに「宝物」だといえる愚かなロマンチストがすきなのだ。
 アンディが、おもちゃをひとつひとつ取り出し紹介していくシーケンスは涙なしには見られない。驚くのは、アンディの中でのウッディの性格と、実際のウッディの性格とが完全に合致しているという点である。ここには多くの人々がはっとさせられたのではないか。もちろんアンディは、おもちゃたちに命があり、固有の性格を持ち、大冒険を繰り広げていたことを知らない。知らないのだが、おもちゃたちの命は持ち主である子どもの豊かでまじりっけのない想像力と分かちがたく結ばれているのだ。『トイ・ストーリー3』は、いい年して子どもじみたファンタジーに囚われたままの全てのロマンチスト=愚か者へ贈られた賛歌であり、私たちが物語を信じていくかけがえのない希望としてここにある。
追記
・なんにせよ、本作ははっきり「大人の映画」だとおもう。もちろんちびっこにも理解しうる優れたジュブナイルだともおもうが、ちびっこがこの映画の本質に慄然とするのはまだまだ先だろう。そこにこの映画のすごさがある。スピルバーグの『フック』との比較も有用かもしれない。
・もうひとつこの映画を語るうえで是非とも言及しておきたいのは「怖さ」。ビッグベビーやドーリー(遊びなのにこわい!)の演出はすぐれたホラー映画を熟知したものだけがなしうる計算された照明設計や間合いによってひさびさにぞくっとした。この手抜きのなさ!!いつかピクサーはフルCGホラーを撮るべき。
・なによりおそろしかったのは間接的にしか見せない「暴力」の表現。バズがリセットされる際、床に落ちるネジだけを映したり、記憶を消されたバズが仲間たちを取り押さえるようすは敢えてピントをぼかし、その向こうにいるロッツォの悪辣な微笑みにフォーカスする。このふたつは特に目を奪われたし、こういう場面こそ子どもたちはいつまでも覚えているとおもう。