Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『シルビアのいる街で』(ホセ・ルイス・ゲリン)

"Dans La Ville de Sylvia"2007

 六年前に出会ったシルビアという女性の姿を探し彷徨う青年が、カフェで見つけたそれらしき女性を執拗につけまわし、ようやく話しかけたが人違いでした、という話。本当にそれだけの話。ストーリーはほとんどないに等しいが、ポリスの楽曲「見つめていたい」(この映画のキャッチコピーになっている)のように強迫観念的な恋にとらわれた男の物語として語るのは、いかにも表層的である。おそらく青年はシルビアの顔をとうの昔に忘れており、それどころかシルビアという女性がほんとうに存在するのかさえ定かではない。街で見かけた女性を青年は無心にクロッキーする。そのほとんどに顔が描かれていない。執拗なクロッキー作業が彼にとって「幻の女」の探索であることは間違いない。そしてついにシルビアらしき女性を見つけるが、人違いであった。面白いことに、青年のクロッキー帳には人違いだったはずの女性の姿が新たに書き込まれ、翌日から彼はその女性のすがたを探し求めるようになる。人違いだったはずの女性がシルビアへとなりかわっているのだった。ここへきてシルビアという固有名詞が奇妙な抽象性・寓話性を帯びてくる。証拠のない記憶というものは誰にでもあるとおもう。覚えてはいるけれど、思い返すと現実に起こったことなのだと確信がもてず、それを確かめるすべもない。映画を見るという行為はまさにそれであり、上映時間中は圧倒的に真実たりえていた光景が、劇場から一歩出ると夢のようにはかなく日常から断絶してしまう。『シルビアのいる街で』が見るものの心を強くとらえるとすれば、この映画の自己言及性ゆえではないか。「幻の女」を探しもとめる青年の姿は、映画という「捏造された記憶」を見つめる私たちそのもののようでもある。おそらく青年は来る日も来る日も、シルビアをめぐる人違いを繰り返しているのであり、現にこの映画が繰り返し上映されることで、青年の人違いは反復されているのだ。
 ただそこにある光景が、音が、シネマとしてのいいようのない幸福をもたらす。ホセ・ルイス・ゲリンゴダールロメールを経由して、ほとんどブレッソンの末裔のようですらある。実のところその才覚に驚愕しつつも、この映画は私の人生にはあまり関係ないかなとすらおもっていたのだよ。基本的にうつくしいものしか写っていんだな、と。ところが、終盤なにやら不吉とすらいえるざわつきが画面を支配する。風に吹かれた女性の髪の毛がまるで生きているかのように動き出す。さまざまな顔(そこにはひどい火傷を負った女性もいる)が並ぶ駅のホームに路面電車が割り込み、その窓に写った多くの顔がさらに侵入してくる。無数の顔によって混濁した画面に、幽霊のようにオーバーラップするシルビア(かもしれない女)の姿。イメージと音の洪水が、心地よさを越えてなにやら悪魔的な力をもって見るものを引き込んでいく。ほんとこのまま映画に閉じ込められてしまうんじゃないかと思いましたよ。ずっと見ていると命を吸い取られてしまうような、稀有な映画である。