Devil's Own

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『SR サイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』(入江悠)

2010

 『SR サイタマノラッパー』(以下『SR』)最大の特徴といえば、俳優を極度に追い詰めるワンシーンワンカットだろう。こうした手法が映画における気まずさ、居たたまれなさの表現に絶大な効果を発揮していたことは確かだが、『SR』はほぼ全編がワンシーンワンカットで撮られているために、単にカット割りができないだけなのでは、と思えるところもいくつかあった*1。今回の『SR サイタマノラッパー2』(以下『SR2』)はどうか。映画自体のルック、シナリオ、俳優陣の仕事、そのすべてにおいて格段にアップグレードしている。件のワンシーンワンカットもいたずらに濫用されることなく、重要な場面(今回は市民プールでのパフォーマンス、控え室での口論、三回忌宴会でのフリースタイルが相当するだろうか)に用いられることで更に効果を増している。入江監督はここへきて完全に自らの作家性をものにしたとおもう。『SR』での主役陣だった埼玉のラッパー、IKKUとTOMは本作では狂言回しへ退いている。ここには明らかにかつてのプログラムピクチャー(特に『トラック野郎』シリーズ)が念頭にあり、インディペンデントでプログラムピクチャーを、という殆ど語義矛盾した監督の信念にも感服する。なにより作品を重ねるごとに、シリーズが「成長」していることに興奮するし、このシリーズの制作過程そのものがひとつのムーヴメントになりつつあることを感じる。私は、日本のインディペンデント映画界隈の内輪ムードが実は苦手なのだけど、『SR』シリーズはこうした「閉じた世界」から外部への実存をさけぶ物語でもあるからこそ胸をうつのではないか。
 今回私がとくに感心したことは本作が、田舎の女子ラッパーというマイノリティーに焦点を当てつつも、現代の女の子が抱える普遍的な問題をすくいとっている点である。不定形な夢を追いながら無為に日常を過ごしているIKKUやTOMと違い、本作の主人公たちにはれっきとした仕事があり、生活がある。一度何かを諦めて現実に向き合っているからこそ、彼女たちの焦燥感や閉塞感はより切羽詰っているというか、逃げ場がないというか。『SR』における埼玉の片田舎がどこかで牧歌的なムードを残していたのに比べて、『SR2』の群馬の風景はまるで牢獄かなにかである。ただでさえ女の子は男の子に比べて、是とされる「生き方」や「ライフスタイル」がうんざりするほど用意され、推奨される。化粧や衣装で流行をとりいれつつ私らしいスタイルを演出しなくてはならない。充実したライフを送るために、お菓子を食べ歩いたり、レシピを作ったりしなくてはいけない。内面を磨くために、本を読んだり、映画を見たりしなくてはならない。消費社会が彼女たちにかわいい、カッコいい生き方を要請する。だいたい日本の消費社会は女の子を食い物にしすぎてるよ。私は、かくもかわいいものや美しいものが溢れている世の中において自己破産せず生きている女性たちの精神力に畏れ入る。ただ、そこから弾かれてしまう女の子たちはどうすればいいのか。これは男の子よりもずっと深刻で、苦しい問題ではないかとおもう。『SR2』はその問題にとても誠実に向き合ってくれた。

*1:自主映画で馬鹿の一つ覚えのように長回しばっかやってる学生とかいるでしょ?