Devil's Own

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『ゾディアック』(デヴィッド・フィンチャー)

"Zodiac"2007
 
『ゾディアック』について今一度書いておきたい。サスペンスやスリラーとして本作を見たときに、欠点として必ず指摘されるのが160分という長さである。なるほど私も公開時には長すぎるとおもったし、ヒッチコックなら90分以内でまとめあげることができた題材かもしれない。しかし見返してみると『ゾディアック』という映画に160分という長尺は必要な時間だったと感じる。ここにはミステリーの高揚もカタルシスもない。サスペンスやスリラーとすら呼べないのではないか*1フィンチャーは未曾有の劇場型犯罪を描くにあたって逆に「ドラマ」を徹底的に抑制してみせる。ゾディアックキラーが男女を殺害する場面の「軽さ」はどうだろう。この映画の中では、殺人も食事も睡眠もすべてが同じテンションで語られるのだ。タクシーを真上からとらえたよそよそしい俯瞰ショット、超高速で進んでいくビルの建設によって時間の経過を示す印象的なシーンなど、つねに冷徹で叙事的な視点が貫かれている。ゾディアック事件そのものの描写はそこそこに、フィンチャーは犯人を追う刑事や新聞記者がしだいに疲弊し、憔悴していくさまへとフォーカスしていく。ジェイク・ギレンホールが、真犯人と思われる人物と対峙するときの言い知れぬ虚無感。ゾディアックはもはや殺人犯ではなく、男たちを駆り立て破滅させていく亡霊とすらいえる。以前高橋洋が『セブン』を批判して、「あの程度の殺人犯はさっさと撃ち殺してかまわないのに、何を律儀に付き合っているのだ」というようなことを書いていた。まったく確かに『セブン』は狂気を馬鹿にしている。『ダークナイト』についても同じ問題が指摘できるとおもうのだが、そう思えてしまうのはやはり『ダーティハリー』の存在が念頭にあるからなのだ。確信犯というべきか、劇中では『ダーティハリー』が数回引用されている。『ゾディアック』はダーティハリーになれなかった男たちの物語だともいえる。もっといえば、「映画」になれなかった男たちの物語だろうか。フィンチャーは『セブン』で置き去りにしていた悪や狂気の問題について、フィクションとリアルの間を巧みに往還しながら問い直す。ゾディアックは殺人犯から亡霊へ、ついには映画そのものへと変容した、とまでいえば衒いすぎだろうか。じっさい、この映画における「フィルム」の存在はゾディアックそのもののアナロジーではないか。劇中でたびたび登場する「これは映画ではない」という自己矛盾的なせりふ。「俺が映画になるのを楽しみにしてるぜ」とまさに自分の映画の中で口にする殺人鬼。ゾディアックのマークがフィルム冒頭のマークと酷似しているというおおよそ物語に必要ない指摘。いずれにせよこうした自己言及的な要素が、『ゾディアック』を単なるフィクションにとどまらない領域にまで踏み込ませている。
追記:ちなみに『ゾディアック』はブルーレイを買ったんですがすばらしい画質でノワール的な雰囲気を堪能できました。特典もあわせたブルーレイ自体のレビューはお世話になっているid:katokitizさんエントリのがたいへん参考になって面白いのでどうぞ。私もこちらを読んで購入しました。特典面白そう。てかデヴィッド・フィンチャーがゾディアックに取りつかれているって面白すぎ!
http://d.hatena.ne.jp/katokitiz/20100421

ゾディアック ディレクターズカット [Blu-ray]

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*1:唯一この映画がサスペンス的緊張を帯びる地下室のシーケンスですら、どこかパロディ的なムードがあり笑えてしまうほどだ。