Devil's Own

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『怒りの日』(カール・Th・ドライヤー)

"Vredens Dag"1943年/デンマーク

 長らく廃盤になっていて入手も難しかったカール・ドライヤーの傑作『怒りの日』が、先日紀伊国屋レーベルからリリースされました。このブログでも何度か言及しているように、私がこの世で最も好きな映画である。以前オールタイムベストとして10本の映画を挙げたが、その中でもこの作品は傑出しており、他の追随を許さない。今回改めて見返してみて、やはりとんでもない映画だと、陶然とした。名画ともいえる作品なので、私がとやかく書く必要もないとはおもうが、ネットでちょっと探してみる限りそこまで多くの人が言及しているわけでもないようだ。せっかくだから少し書いておきたい。
 『怒りの日』はキリスト教最大の狂気である「魔女狩り」を材に取った映画である。しかし、ここでは明確なモラルの提示はなされないし、恐るべき罪悪を告発しようとする姿勢も皆無である。「魔女狩り」というアナロジーを通してナチスドイツを糾弾する意図があったのでは、という見方もあるが、私はこうした図式的な読み解きはまったく見当違いだとおもう。いわば男性主義の妄執ともいえる「魔女狩り」とは別に、「母性」という狂気も影を落としていることにも注目したい。この映画は、特殊な状況下の特殊な人々についてではなく、人間の根源にかかわる本質的なおぞましさを突いている。村の牧師館には初老の牧師アプサロンと年若い妻アンネ、そしてアプサロンの母親が同居している。アンネはアプサロンの二番目の妻だが、母親は若く美しいアンネのことを快く思っていない。そこへ、留学していた先妻の息子マーチンが戻ってくる。情熱と欲望を持て余したアンネは若く快活な義理の息子に心惹かれ、マーチンもまた若い母親の妖しさに魅せられていく。こう書くと、本作が意外なくらいスノビッシュな情痴事情を取り扱っていることに気がつく。禁忌的な欲望のドラマを、シャブロルやフーパーの映画にも通じる「ヤバイ田舎」が醸造していく。魔女狩りという暴力的な狂気を背景に、登場人物の欲望と思惑が絡み合い、素朴な牧師館が、禍々しさを増す。厳格な世襲にからめとられた牧師館は、陰影のくっきりとした照明と重苦しい振子時計の音に演出されどこまでも忌まわしい。対照的に、アンネとマーチンが禁じられた逢瀬を重ねる小川や野原は自然光と甘い旋律によっておおらかな官能を育む。実のところ『怒りの日』は、このふたつの世界によってのみ構成されているといっていい。厳格で排他的な宗教観と若く情熱的な欲望との間で引き裂かれる人々の物語、といえるだろうか。次第にテンションを高めていくふたつの世界は、嵐の夜のシーケンスにおいて劇的な衝突を見せる。観客は本物の「魔女」を目の当たりにし、戦慄することになるのだが、照明、音響、カメラワークから登場人物の演技に至るまですべてが緻密に設計されており、息を殺すほかない。つづいて小川で演じられるアンネとマーチンの最後の逢瀬もまた、それまでとは全く違った風景を見せ、ふたりの中で何かが決定的に変化してしまったことを暗示する。心象風景と共振する画面づくりはまさに神業だ。『裁かるるジャンヌ』よりも遥かに冷酷な手つきで描かれる魔女裁判や拷問、処刑の様子も凄絶でスペクタクルに満ちている。しかし、この映画が真に恐ろしいのは、見る者に「魔女」の存在を信じさせてしまうところにあるのではないか。『奇跡』が信仰の勝利(神の勝利)を描いた作品だとすれば、『怒りの日』は悪魔の勝利を描いた作品とすらいえるかもしれない。このフィルムに横溢する不吉さはそれほど尋常ならざるものがある。魔女狩りという特殊な状況に取材しながらも、ここで描かれるのは極めて身近で普遍的な何かである。「魔」と言ってしまってもいいだろうか。得体の知れない、だが確実にそこにある「魔」を私たちは慄き、一方で強く魅入られる。だからこそ身の毛がよだつほど恐ろしい。この映画における魔的なるものを体現しているのがリベスト・モーヴィン演じる主人公のアンネだろう。聖女と魔女をたくみに往還するリベスト・モーヴィンの「燃えるような瞳」に、陶然としながら、われわれは自分の中に「魔」を発見し、戦慄するのだ。

カール・Th・ドライヤー コレクション怒りの日 [DVD]

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追記:特別思い入れの強い作品だけに、最初にアップしたときから何度か手を加えてしまっています。RSS飛びまくってたらごめんなさい。