Devil's Own

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『エイリアン3』(デヴィッド・フィンチャー)

"Alien³" 1992/アメリカ

 ここ数日BDで『エイリアン』シリーズを集中的に見ていくなかで、久々に『エイリアン3』を見た。おそらく小学生くらいのときに地上波で放映されていたものを見て以来だとおもう。そのときは当然意識していなかったが、デヴィッド・フィンチャーの長編第1作でもある。もはや「デヴィッド・フィンチャーのデビュー作」というターム以外にはほとんど話題にならない作品だが、『ソーシャル・ネットワーク』の前振りとして、ぜひ書いておきたい。
 特典として、スタッフやキャストの証言からなるメイキングドキュメンタリーが収録されているが、これがすこぶる面白い。肝心のフィンチャーが一切コメントを寄せていないことからも、本作の企画がいかに空洞化していたかが伺える。シナリオ構想は二転三転しコンセプトすら定まらない状態で、フィンチャーは撮影を余儀なくされた。この経験は新人監督を追い詰め、傷つけたに違いない。『エイリアン3』は製作側のさまざまな思惑と力学のなかで引き裂かれた作品なのだ。それでも、当時のスタッフやキャストが口を揃えてフィンチャーを高く評価していることは興味深い。もちろん現在の評価も影響しているとはおもうが、若きフィンチャーが才気とカリスマ性にあふれていたことは間違いなかったとおもう。
 現在『エイリアン3』は92年当時の劇場公開版と2005年に改めてリリースされた完全版のふたつのヴァージョンを見ることができる。今回驚いたのは、このふたつのヴァージョンがほとんど別物と言っていいほど印象が違って見えるということだ。『エイリアン2』にも同じように2ヴァージョンが存在しているが、あくまでも登場人物のキャラクタードラマが補足されている程度であり、作品のカラーそのものに決定的な差異はない。『エイリアン3』はそんなレベルではないんですよ。惑星フューリーのクールな美術設計、「死神」としてのエイリアンに魅せられる囚人ゴリックのキャラクター(公開版ではいつの間にか消息不明に)、エイリアンに寄生された牛の死体(公開版では犬)の不気味な造形など、現在のフィンチャー映画にも通じる暗黒性は完全版でしか見ることが出来ない。
 本作で、もっとも印象的なカメラワークは、長く入り組んだ通路で動きまわるエイリアンの主観ショットだろう。壁や天井を縦横無尽に蠢くエイリアンよろしく、カメラもぐるぐる回転する。正直ちょっとあざとい演出にも見えるが、このカメラワークは本作の方向性を決定づけてもいる。第1作ではほとんど幽霊とすらいえるほどホラー的存在であったエイリアンは、第2作においては物理的な対処が有効な(ともすれば対話の余地すらもある)異人類へと変遷し、本作においては『ジョーズ』でいうサメのようなキャラクターにまで変化した。これをエイリアンの矮小化といってしまえばそれまでだが、モンスターパニックというひとつのジャンル映画としてみれば、独自の魅力にあふれている。今までになく動物的な動きを見せる本作のエイリアンはほとんどが人形操作によるものだが、そのセクシーなフォルムを最大限に生かした動作が滑らかで魅惑的だ。舞台となる惑星フューリーも、普通のパニックアクションにはない閉塞感を煽る。この宇宙の「軍艦島」ともいうべき惑星フューリーの設計は本当にすばらしいですね。改めて見るとリドリー・スコットが作り出した暗くてじめじめとした世界観は、むしろ第3作のほうに色濃く継承されているのではないだろうか。ヴィジュアルコンセプトに関していえば、2作目はむしろ後退してしまっている。キャメロンはあくまでベトナム戦争のイメージだもんね。3作目もリドリー・スコット(『エイリアン』だけではなく後の『ブレードランナー』の影響も色濃い)の模倣から脱却できておらず、必ずしもフィンチャーの独自性が打ち出されているとはいえないが、奥行きを生かした画作りとライティングの安定感はとても処女作とは思えない。撮影のアレックス・トムスン、編集のテリー・ローリングスなど、リドリーとの仕事も多いベテラン勢の支えも大きかったろう。ちなみに、『ブレードランナー』の撮影で知られるジョーダン・クローネンウェスは病気のため降板してしまい、結果としてこれが最後の作品となってしまった。本作ではクローネンウェスが手がけたカットも残っているが、立体的な照明設計が息を呑むほどうつくしい。シナリオの未完成を除けば、予算もスタッフも好条件が揃っており、傑作になる可能性が十分にあったのだ。私の中ではシリーズ中最も評価が低い作品だけども、いまや飛ぶ鳥落とす勢いのデビッド・フィンチャーがかつて体験した苦々しい処女作として観ると愛おしさがこみ上げてきます。