Devil's Own

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『冷たい熱帯魚』(園子温)

"Cold Fish"2009/日本

 あの事件を園子温が映画化、というトピックだけで猟奇犯罪ファンには垂涎の一本だろう。もちろん私も劇場に駆けつけた。実録犯罪映画は70年代から80年代前半にかけてジャンルとしての興隆を極め、『復讐するは我にあり』(今村昌平)や『TATTO<刺青>あり』(高橋伴明)あたりは有名だとおもう。実在の事件を扱った映画は作り手と受け手両者の興味を変わらず刺激しつづけ、今日も産み出されている。90年代では井土紀州瀬々敬久のコンビ作品がその筆頭だとおもうし、昨年は『ヒーローショー』(井筒和幸)という快作も作られた。しかし、プライバシー問題との兼ね合いもあってか、こうしたジャンル映画の作劇は当時に比べてよりフィクションの色合いを強めたようにもおもえる。ワイドショー的感覚では不用意に映画を作れなくなったというべきか。『冷たい熱帯魚』では、久々に猟奇犯罪と映画の危うい蜜月を目にすることが出来る。埼玉愛犬家殺人事件の凄惨な顛末をほぼ忠実になぞりながら、園は日常と地続きの「狂気」を浮かび上がらせていく。むせ返るような暴力とセックスのにおい。息が詰まりそうなくらい鬱屈した家族という共同体。正常なものは何一つないが、スクリーンの向こう側にあるはずの虚構が不意にこちら側を侵食してくる瞬間が確かにある。園がかつての東映プログラムピクチャーの血脈へ引き寄せられていることは間違いないが、露悪的ともいえるこの映画の奇妙な「親しみやすさ」は、『戦後猟奇犯罪史』(牧口雄二)といった東映実録路線よろしく私たちの薄汚い俗物根性を刺激する。日本で表現しうるノワール映画の極北がここにあるのではないか。あらかじめ断っておくが、私は園子温の映画がけっこう苦手なのだ。というかテンションの高い人ってそれだけで不安になるよね。園子温の映画を見ていると場違いの飲み会に呼ばれたときのような気まずさがある。世評の高い『愛のむきだし』も私は全くついていけなかった。『冷たい熱帯魚』で、独特のハイテンション演出が弱まっているかというとそんなことはない。後半は、園の真骨頂ともいうべき不安定なカメラワークと俳優たちの「熱演」のつるべ打ちである。しかし、今回その「置いてきぼり感」が、より異様で禍々しい映画として本作を印象付けているのではないか。常に上機嫌な人懐っこいおっさんから、残忍な暴君へと態度を豹変させる犯罪者・村田(でんでん)のキャラクターは、まさしく園子温の映画そのものである。誰もが認めるとおり、圧倒的な実在感(存在感ではない)において村田のキャラクターはひときわ目を引く。映画のなかで犯罪者が描かれるとき無意味に神話性を付与されていることがしばしばある(例:『セブン』)。村田のキャラクターにも「キリスト教」の存在がちらつき、これはちょっと…と危ぶんだりもしたが、でんでんは最後まで「今そこにいるおっさん」としての殺人鬼を見事に演じきってくれた。本作の殺人鬼表現は世界に自慢できるこわさではないだろうか。主人公・社本と村田の関係性に『ファイト・クラブ』との類似を指摘する向きもあるとおもう。確かに終盤の展開は社本が村田というオルターエゴと同化し、マチズモを回復する物語ともいえそうだ。しかし、社本が命がけでつかみとった人生哲学を中学生女子にあえなく一蹴させてしまうあたりに、園子温独自の作家性があるようにもおもえた。