Devil's Own

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『八日目の蝉』(成島出)

"A Cicada on the Eighth Day"2011/JP

 あのね、まず蝉の成虫が7日しか生きられないというのがもう俗説なんですよ。実際には1ヶ月くらいは生きられるし。短いのには変わらないけど、蝉は蝉の人生をちゃんとまっとうしているのであって、人間側の一方的な感傷を持ち込まれても迷惑なだけでしょ。こんな指摘は野暮だと言う人もいるだろう。しかし、私は蝉に対するいい加減で一方的な態度がそのままこの作品を象徴しているようにもおもう。要するに一面的で深みがないんですよ。
 この映画において"人間"と呼べるのは、井上真央永作博美小池栄子の3人だけだと考えていい。残りの人間は極端なまでに類型化された記号、もしくは背景=モブである。井上真央の両親を描くクリシェの連打はどうだろう。徹底的なまでの「愛人(永作博美)」視点。お昼のドラマならいざしらず、これを映画で堂々とやってしまっていいものか。いつ「この泥棒猫!」なんてせりふが飛び出してくるのか冷や冷やしてしまった。なるほど、確かにこれは女性映画なのかもしれない。しかし、本当の女性映画というものは男性を描くことから逃げてはいけないはずだ。この映画の「男ってこんなものよね」的なロジックは裏を返せば「女性ってこんなもんよね」って言い方にもなってしまうとおもう。「蝉は7日しか生きられないからかわいそう」という一方的な視点が、「子供を産めなくなった女性はかわいそう」っていう言い方に難なくつながってしまいそうですごく居心地の悪さを感じた。女は子宮で考えてるから、みたいなこと言う人いるじゃないですか。それってあんたの都合でしょう。
 それでもすべてが浅薄で一面的だったわけではない。中盤から終わりにかけてかなりの時間が香川県小豆島での「かけがえのない日常」の描写に割かれている。ほとんど観光映画とすら言える後半は正直言ってかなり長い。この映画の欠点にもなっているとおもう。しかしここがこの映画の真骨頂であることも確かだ。丹念に積み重ねられる幸福な日常描写。映画を見ている私たちはその日常がすでに失われた、二度と取り戻すことのできないものであることを知っている。こうした時間は特別な人たちの特別な物語というわけでもなく、誰もが持っている普遍的な記憶でもあるので説得力もある。永作博美が野外のベンチで少女時代の井上真央とそうめんを食べている。数年後同じ場所に井上真央が立っているがすっかり寂れてしまっている。こうしたいくつかの場面に胸が締め付けられるような気持ちになったことは確かだ。それから小池栄子。素晴らしいとおもった。小池栄子といえば傑作『接吻』を思い出す人も多いとおもうが、『八日目の蝉』は彼女のもうひとつの代表作になるだろう。『接吻』では感情をそぎ落としていく方法論でヒロインの孤独な魂を体現していた。本作で小池が演じる女性もまた同じように孤独だが、演技のアプローチは全く異なる。彼女のおどおどした話しぶり、定まらない視線、丸めた背中を見ているだけで泣けてくる。あの実在感。小池が演じたあのキャラクターだけで一本映画が作れそうな気がする。
総じて好感は持ったのだが、終盤ですべて台無しだとおもいました。登場人物が泣きながら大声出したり、走ったりするのが感情表現だとはまったく思わない。私の周りの観客はぐすぐす泣いていたので演出の問題というより観客の問題なのかもしれないが。冒頭で「いい加減だ!」と批判したわりに、私の感想のほうが散漫でいい加減な感じになってしまいました。