Devil's Own

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『ブルーバレンタイン』(デレク・シアンフランス)

"Blue Valentine"2010/US

 アメリカ映画には普通の家族にある小さな亀裂を顕微鏡で拡大し、つぶさに見せるような系譜が存在すると思う。そうした映画の代表選手がジョン・カサヴェテスであり、ウディ・アレンであったりする・・・というのは今はなき良ブログ「マコンド犬」に書かれていたことの受け売りなのだが、『ブルーバレンタイン』もやはりこうした系譜に位置する作品である。倦怠期を迎えた一組の夫婦が崩壊していくさまを冷酷に抉っていく一方で、2人が知り合い結婚するまでの最良の日々の記憶がフラッシュバック的に挿入される。恋愛にまつわる記憶を脳内再生するかのような話法は『(500)日のサマー』を強く意識させるが、ここには洗練された映像表現や気の利いた結末もない。ほとんどドキュメンタリー映画の冷淡さで男女関係をめぐる甘美さと残酷さを提示していく。
 冒頭、夫婦と一人娘が迎える朝食の様子からして、すでに異様な虚無感がみなぎっている。耐え難いね、このムード。この物語では主に妻のシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)が、夫ディーン(ライアン・ゴズリング)に失望してしまっているわけだが、ふたりの立ち位置や性格が逆だったとしても十分成立しうる物語だ。自意識ばっかり無駄に高い恋人の独りよがりな愛情表現に足を引っ張られているような気がして切り捨てるように別れを告げた経験が私にもあるし、逆に私の度を越したいい加減さに明らかに失望し始めている恋人の気持ちを取り戻したくて祈りすがるような気持ちになったこともある(ていうか現状なんですけどねこれは)。だからどちらの人物にも素直に感情移入ができたし、考えさせられてしまった。自動車の中で何気ない一言から口論に発展していくさまを描くときの底意地の悪さといったらない。極端なクローズアップと厳格な切り替えし処理によって異様な圧迫感が画面を支配している。劇映画としてはほとんどアウトと言っていいくらい嫌な撮り方が功を奏してしまっているあたり、監督の知能指数の高さを感じた。
 一方で2人が結婚に至るまでを描いたパートは、それ自体が1本の優れた恋愛映画であるかのようにロマンチックで美しい。主人公ふたりの記憶として意図的に美化された部分もあるとおもうが、既に失われた取り戻すことのできない光景であることを知っている観客をみじめで切ない気持ちにさせる。このあたりは奇しくも公開中の日本映画『八日目の蝉』とも共通する演出ではあるのだが、『ブルーバレンタイン』の場合このロマンチックなルックすらも皮肉として機能してしまっているところが巧みというか、ひどいというか。抱きしめあうふたりを窓の内側から見つめるショット。せりふは一切ないが、おそらくここでディーンはシンディにプロポーズしたのだろう。この映画で私が一番胸打たれたシーンだ。このカップルが数年後もう取り返しのつかない破綻を迎えていることを私たちは知っている。それでもこの瞬間二人に芽生えた愛情のひたむきさや真実性が揺らぐことはない。それはまたあの非常にエモーショナルなエンドロールが証明している。
 まあ、誰が一番悪いかっていったらそれはもうシンディが付き合っていたレスリング男ですよ。これだから筋肉野郎は…って思いましたね。
 シンディは結局最後まで周囲からは「女」としてしか扱われてなくて、本当に彼女を人間として扱っていたのはディーンだけだったというところが切ないよな。たぶん一人娘にも憎まれるとおもう。