Devil's Own

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『キッズ・オールライト』(リサ・チョロデンコ)

"The Kids are Alright"2010/US

 『キッズ・オールライト』はこれまで多くのアメリカ映画が扱ってきた「家族崩壊」をモチーフにしているが、近年まれに見る後味の良さが印象を残す。一度亀裂の入った家族がなれ合い的に再生する様子がまるで美談のように描かれる点には批判もあるとおもうが、こうした予定調和にこそ家族という共同体の不可解さがある。その心地よさと恐ろしさを両義的に描いた作品は国籍を問わず多い(近年だと『レイチェルの結婚』とか『トウキョウソナタ』とか。『Ricky』もそうだろうか。)が、ここまでストレートに肯定論に振り切れた映画は実は少なかった。これはこれで評価したい。
 アネット・ベニングジュリアン・ムーア演じるレズビアンカップルと二人が同じ男性から精子提供を受けて生み育てた子どもたちの物語。表向きはうまくいっていた家族だが、子どもたちの「父親」が闖入してきたことで問題が顕在化し始める。先進的なジェンダー観を持っているはずの主人公カップルが知らず知らず保守的な夫婦像を演じてしまっている点は興味深い。そりゃそうだよね。ゲイカップルだからって先進的なジェンダー観を持っているとは限らない。この映画はゲイカップルというやや特殊な題材を選んだことでジェンダー観の衝突をより普遍的に描くことができた。
 自分のジェンダーにみじんも疑いを持っていない人が世の中にはけっこういる。「男性とはこうあるべきだ」「女性とはこういうものだ」「男女関係とはこういうものだ」という価値観が固定してそれに基づいた恋愛観やセックス観を押しつけてくる人だ。そういう人は最終的に決まってこういうのだ。「やっぱり男と女では違うよね」。自分の男性性や女性性をうまく活用すれば効率的に恋愛ができることは確かだ。しかし、私にはそれがものすごく薄ら寒く見えるんですよね。たいていの場合彼らは男性としての女性としての「機能」を自分自身の魅力か何かとはき違えているようにおもう。私は誰かと関係を築くときに相手が男であるか女であるかを考えたくない。セックスできるか否かで相手との付き合い方を変えてるみたいじゃないですか。同様のモチーフをかなり辛辣に描いた『ブルーバレンタイン』で、仕事ぶりを認めて親切にしてくれていると思っていたミシェル・ウィリアムスの上司が実はからだ目当てだったことが明らかになる場面がある。それでも夫を切り捨てる彼女の行動にある種の成長があるのだが、絶望的な展開だった。男女限らず関係を築くときにまずセックスについて考えてる奴って本当いますよ。
 『キッズ・オールライト』にはふたりの「父親」が登場する。社会的な父親ニック(アネット・ベニング)と生物学的父親ポール(マーク・ラファロ)だ。ニックは家族の「父親不在」を埋めるためなのか、自分のふるまいを過剰に「男性化」している。対するポールは自由恋愛を謳歌する快楽主義者といった感じで、極端すぎるくらいヘテロセクシャルな世界に身を浸している。ポール自身も彼をとりまく女性たちもとにかくセクシーで健康的なのだ。ポールはオスとしての自分を味わい尽くす人間といえるだろう。最終的にふたりはジュリアン・ムーア演じるジュールスをめぐって対決することになるが、「ストレートの方がよくなったのね」と激昂するニックも、オスとしての機能性を頼りにみじんの疑いもなくジュールスにプロポーズし始めるポールも愚かさにおいては大差はない。だからジュールスがなし崩し的に葛藤らしい葛藤をほとんどすることもなくニックを選ぶ展開にはっとさせられた。
 私は恐らく女性と結婚するんだとはおもうが、人生を共に歩いていく人をあらかじめ異性から選びとるのではなく、そういう人間が結果として女性だったと思えるような関係を築きたいんですよ。『キッズ・オールライト』は私の欲しかった答えを解きほぐして説明してくれた。