Devil's Own

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『ティファニーで朝食を』(ブレイク・エドワーズ)

"Breakfast at Tiffany's"1961/US

 先日シネフィルイマジカで10年以上ぶりに見た。「ムーンリバー」の甘く切ない旋律を聴くだけで涙腺を刺激されてしまうのだが、映画自体は古くさいラブコメくらいにしか思っていなかった。まあ当時はひねくれた中学生でしたから、この手のジャンルは最初から斜に構えて見ていたのは事実だ。今回ものめり込むわけではなく漫然と見ていたがラストでぼろ泣きしてしまった。これには意表をつかれました。結末も知っていたのになぜなのか。たぶん私の中でトルーマン・カポーティへの理解が少しだけ深まっていたからだとおもう。
 この映画は原作とほとんど別物といっていいくらい違っている。結末も含めてロマンチックで洗練されたラブコメへと書き換えられたことへの賛否はとりあえず置いておく。重要なのは原作でも映画でも高級娼婦ホリー(オードリー・ヘプバーン)があこがれる「ティファニーで朝食を食べるご身分」は決して肯定されるものではないということだ。ホリーは自分では自由で洗練された都市生活を謳歌しているつもりだが、じっさいはパターナリズムと消費社会の奴隷でしかない。最後も最後、タクシーから降りるその瞬間までホリーは俗物根性にまみれた便利な女でしかないんですよ。作家志望の青年ポール(ジョージ・ペパード)の「君は鳥かごの中にいる」という指摘によって初めて本当の自我に目覚める。つまり名無しの子猫だとかスナック菓子のおまけの指輪だとか、そうしたものを大事にしてしまう愚かな男のかけがえのなさに気がつくのだ。面白いのは物語冒頭ではポールも作家気取りのヒモでしかなく、ホリーに触発されて自我を取り戻す点だ。立場が逆転してるのだ。
 こうしたテーマはカポーティの作家性を踏まえればわりとすんなりと読み取ることができる。オードリー・ヘプバーンというアイコンを介することでずいぶんと違った印象を持たれてしまった。いまやカポーティすらおしゃれでハートフルな短編を書く作家と思われているふしがある。
 原作におけるホリーの性格はかなりぶっ飛んでいてチャーミングだ。村上春樹の新訳に顕著だがほとんど境界性人格障害にすら見える。ホリーの人物造形にはカポーティの自己像がかなりの部分投影されているとおもう。理想化されているところもあるし偽悪的にデフォルメされているところもある。いずれにしてもカポーティらしいキャラクターだ。『ティファニーで朝食を』というタイトルそのものに俗物的なブルジョア趣味への皮肉が込められている。それが「宝石店の前でデニッシュをかじるオードリー・ヘプバーン」という洗練されたイメージとして映像化されてしまったために多くの誤解を生んでしまった。やはりファッションアイコンとしてのヘプバーンの影響力は大きすぎた。この役は当初カポーティが望んできたとおりマリリン・モンローで撮られるべきだったとおもう。当時のモンローはセックスシンボルとしての自己イメージを脱却したいと考えていて高級娼婦のホリー役を断ってしまったらしいのだが実にもったいない。まさにそうしたイメージにしばられてしまった女性の物語なのに。モンローが演じていたら大傑作になっていたと思うんだけどな。
 追記:ちなみに私の大好きなジェームズ・マンゴールドの『ニューヨークの恋人』でも「ムーンリバー」が効果的に使われている。うすうす感じてはいたが『ニューヨークの恋人』はかなりこの映画を意識して作られていることが今回よくわかった。『ニューヨークの恋人』はかつて興隆したハリウッド製ラヴロマンス映画というジャンルそのものを懐古しているようにおもう。働く女子の欲望を全身で体現するヒュー・ジャックマンが美しい傑作です。

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