Devil's Own

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『へんげ』と『先生を流産させる会』(カナザワ映画祭)

 17日からの2日間、カナザワ映画祭に行ってきました。映画祭はもちろん金沢市に行くのも今回が初めてで、特急列車と新幹線を乗り継ぎ片道8時間近くかかった。イベント自体も面白かったけど普段からtwitterはてなでお世話になっている方々と実際にお会いしたりもできたりして充実感のある休日が過ごせました。ありがとうございます。
 今回は初日の『へんげ』、『先生を流産させる会』の2本立てを最初から目指して行った。『へんげ』の大畑創監督は『大拳銃』を見てから注目していたし『先生を流産させる会』は予告編のかっこよさにほれ込んでしまっていたからだ。後者はこのタイトルで一般公開されるのはたぶん難しいだろうという予想もあった(実際監督もそのようなことをおっしゃっていました)。当日はものすごい盛況で注目度の高さをうかがわせたが、結論から言うとどちらも自主映画ならではエッジに富んだ傑作だった。本当に見に行って良かったよ。これから多くの劇場で公開される可能性を信じてなるべく核心に触れないように書いていきたい。

『へんげ』(大畑創)

"Transformation"2011/JP

 『大拳銃』は倒産寸前に追い込まれた町工場を経営する兄弟が拳銃作りにのめり込んでいき狂気を爆発させるノワール映画だった。砂をかむような焦燥の中で「ふつうの人々」が暴力と狂気へ絡めとられていく。『へんげ』は『ザ・フライ』や『第9地区』などに通じる「変身もの」と言えるが、やはりどこにでもいそうな夫婦が主役となっている。夫(相澤一成)はてんかんに似た原因不明の発作に度々襲われついには身体の一部が変形し始める。献身的な妻(森田亜紀)は一度は病院(研究所?)に預けるかたちで夫を「見放す」が、やがて怪物としての夫を受け容れ、狂気へと落ちる。夫婦役を演じた森田亜紀と相澤一成を始めどの登場人物もいい顔つきをしている。序盤の憔悴しきっていた顔から次第に豊かな表情を見せる森田亜紀が特にすばらしい。Jホラー的な文法を駆使して紡がれていく夫婦の愛と狂気の物語は、終盤でダイナミックな離陸を見せる。空想科学と怪奇とメロドラマを織り交ぜた作品世界は『ウルトラQ』を思わせるのだが、まさか今の自主映画でこんなものを見られるとは。ラストはこらえきれずにぼろ泣きしてしまった。上映後の短いティーチインの中で大畑監督は「(ラストシーンを)急に思いつきぐっときてしまった」と言って周囲を驚かせていたが私にはその感覚がよくわかる。今年の日本映画暫定ナンバー1。異形への愛に溢れた傑作だ。

『先生を流産させる会』(内藤瑛亮)

"Let's-Make-the-Teacher-Have-a-Miscarriage Club"2011/JP

 「先生を流産させる会」事件の何に世間が戦慄したかってやはりこのネーミングセンスではないか。考えた奴はクズだとおもうがすごいセンスをしている。給食に異物を混入したとか、椅子のねじをゆるめたといった幼稚ないたずら行為なんて怖くもなんともない。「先生を流産させる会」というネーミングそれ自体が呪いの言葉か何かのようにこだまして大人たちを凍りつかせた。子どもたちの中に蠢く悪意と稚気をたった一言で暴いてしまったからだ。
 そんな呪いの言葉をタイトルに冠した映画は子どもたちの悪を徹底的に描こうという覚悟に満ちた作品になった。題材や作劇について『告白』を引き合いに出す人はおそらく多いとおもう。私は『告白』はいいも悪いも一週間くらいで内容のほとんどを忘れてしまったが、この映画は見る人の心に爪あとを残そうという酷薄さを感じる。
 「会」のメンバーを男子生徒(実際の事件)から女子生徒へと置き換えたことも大正解。「子ども対大人」の対立構造をより明確に打ち出せたとおもう。これこそ本当の女子会ですよ。こわいこわい。わけても主犯格ミヅキを演じた小林香織の存在感は特筆に価する。自分がもし女の子で同じクラスだったら従ってしまうかもと思えるような独特のカリスマ性と威圧感がある。特に目だよね。ぞっとするような悪の深淵を映しているようで少女独特のピュアネスも感じさせる。特に彼女の生命観を象徴するせりふ(「生まれる前に死んだんでしょ?いなかったのと同じじゃん」)を言う場面が恐ろしく美しい。柔らかな自然光と髪をゆらす風、そして日本人離れした彼女の美貌もあいまってまるでエリック・ロメールの映画のようだ。映画におけるジョーカー役を一手に引き受け、見事に演じ切った。それくらいこの映画は彼女の存在に拠るところが大きい。
 明確な説明はなされない(本人も「知らん!」と言っている)が、ミヅキがサワコ先生を通じて女性=母親を嫌悪していることは明らかだ。こうした母親恐怖(メトロフォビア)の心理は映画全体を貫いてもいる。グループの一員であるフミホの母親の異常性、劇中では一切語られることのない(ゆえに強く存在を意識させる)ミズキの母親の存在は象徴的だし、プールで初潮を迎えることでミズキ自身が母性に近づいてしまうという展開もよく利いていた。ミヅキの母親は部屋に男を連れ込んではセックスしまくって最終的にはミズキを捨てて出て行ってしまったどうしようもない女だったと想像することは簡単だが、こうした説明はいかにも退屈だ。そういう理由がなくてもミヅキが持つ母性への恐怖心や嫌悪感はけっこう普遍的なものではないか。むしろ母性を頭から美しいものとして信仰する風潮のほうが異常に思える。私が『八日目の蝉』に感じた不快感もまさにそこなんだよな。
 予告編でもその片鱗を感じたが内藤監督の力量は傑出している。心地よいカメラの横移動、ぽんと放り投げるようなロングショット、テンポのいいカッティングなど映画全体の呼吸は一級品で、黒沢清の初期作に通じる躍動感がある。自主映画作家にとって黒沢清を引き合いに出されるのはあまりうれしいことではないかもしれない。廃材や段ボールなど黒沢清的な意匠だけで作られた自主映画はごまんとあるからだ。ただこの映画は黒沢清の動体視力や運動神経をしっかりと継承している。もっと言えばゴダール的なんですよね。剣呑とした題材ではあるし、自主映画ならではのいびつさもあるがそれ以上に娯楽映画としての確かな風格を感じさせる作品だ。是非商業映画としてできればタイトルもそのままで上映して欲しい。

特報は映画の中の特にしびれる場面ばかり集めていていい出来。テーマ曲もすごくよかったです。