Devil's Own

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『恋の罪』(園子温)下

"Guilty of Romance"2011/JP

 先日の『恋の罪』を罵倒したエントリでちょっとした反論をいただきました。最初はリツイート経由でですね「映画の中で描かれていることが果たして製作者側の倫理まで表してることになるのか」という疑問を呈された上で「女が力を持つ=男がいらないという発想が子どもっぽい」とつぶやかれていたんですね。
 これに私は、いやいやそこまで極端なことは言ってませんが登場人物の行動原理から製作者の価値観が見出せるとはおもいます、みたいなリプライをしたんです。するとこう返されました。

 そうだとすれば映画の中から根拠をもっと具体的に示すべきだと思います。あのブログの文章はあなたの個人的な思い入れだけが書き連ねられていて説得力に欠けます。現実の有り様を卑俗に描いたらそれが製作者の規範意識を示すことになると言われたら映画の表現性が狭まってしまう。
私も女性同士でという展開もあっていいとは思いました。ただ製作者があの大学教授の在り方を是と思っているとは言い切れません。むしろ彼女のセックスの拘り方に歪みを見出だしているとも言えます。また性別に関わらず性とは他者の需要=欲望抜きに語れません。例え相手が同性であってもです。他者の欲望から全く自由になれる人はいません。観念的な設定の中でヒロインを無傷のままに抑圧から解放したとして(←これはまさに規範です)現実を生きる私達はそれを見て救われるでしょうか?

 それで私は改めてこの作品について考えてみたんですよね。確かに先日のエントリはかなりヒステリックな論調になってしまっていて公平性を欠いていたようにおもいます(それこそ作品のテンションに引きずられたところもあるかもしれません)。
 今回指摘されて気がついたことは、私は神楽坂恵のキャラクターにばかり目が行ってしまい冨樫真のキャラクターについての分析を怠っていたという点です。主要の女性陣3人がそれぞれに男性側の性的欲望に従属した存在であると考えたときに、一番セックスアピールの強い神楽坂に注目してしまったんですね。さらに神楽坂が監督の配偶者だというバイアスもかかっていた。こういう見方こそよっぽど俗物的だと気がつき反省しました。東電OL殺人事件をモチーフにしているのなら当然冨樫のキャラクターを中心にテーマを読み取るべきでした。

 「冨樫のあり方を是としているわけではないのではないか」という指摘もそのとおりだとおもいます。作品の中で冨樫ははっきりモンスターとして描かれている。そして「性的」とはいいがたい。細々とした肉体も、客がドアを開けるなり「セックスしよ」と飛び込んでくるあけすけな態度も男性側性欲から逸脱した存在といえる。さらに冨樫の人間性を形成する重要なファクターとして父親への恋慕も示唆され、絶対に満たされることのなかった冨樫の欲望はカフカの「城」になぞらえられてもいる。冨樫の欲望は純粋に「(父親と)寝たい」であり永遠に満たされることがない。その代償として性を売買している。なんとなくしっくり来そうです。冨樫を殺した神楽坂は、冨樫の生き様を継承(模倣)する。神楽坂が場末の旅館みたいなところで冨樫に教えてもらった詩をつぶやくと客が「けったいな詩やな」と馬鹿にする。神楽坂は逆上するが暴力の前に屈服する。こうした展開も「女に詩(言葉)など必要ない。黙ってやらせろ」という男性側の欲望との闘争であるかのように読める。

 ただそれは精いっぱい好意的に読み取ったからであって、園がこうしたテーマをちゃんと伝えきる演出をしているかは疑問です。冨樫はいいとしても、神楽坂と水野に関しては自分の欠落感を埋めるための手段がどうしてセックスでなくてはならなかったのかがちゃんと示されない。三者が三者ともセックスに救いを求めるというのはいかにも安易だし、製作者の女性に対する偏見を感じてしまいます。ありとあらゆる行動原理が「現代女性が抱える心の闇」で片付けられている気がするし、それがあっさりセックスと接続されるのはさらに違和感がある。『ファイト・クラブ』の主人公は保守的な男性性に引き寄せられ、『ブラック・スワン』の主人公が保守的な女性性に引き寄せられる。それは自らの欠落感を埋めるときに自然なふるまいだと思います。重要なのは外部に規定されたセクシャリティへの接近を通してセクシャリティを超えた自己をつかみとっていくこと(あるいはつかみとれずに終わること)ではないかとおもいます。おそらくこのプロセスが劇中で語られる「言葉に体を与える」という行為に相当するようにおもう。でも『恋の罪』の神楽坂と水野は結局、他者の需要や欲望を反射していただけで自分自身の欲望をつかみとれていないとおもうのです。「セックスは他者の欲望=需要抜きに語れません」という指摘はその通りですが、その中でやはり彼女たち自身の欲望はまったく見えてこなかった。

AV女優のかすみ果穂がAVに出演するようになった経緯は神楽坂が演じる主婦がAVに出演することになった経緯と似ている。何にも自信がなかったかすみ果穂は彼氏に捨てられるのが怖くて熱心にセックスを勉強し、生真面目な好奇心が高じてAV出演することになる。最初のスチール撮影では華やかな衣装に身を包んで、すっかり見られることの快感にのぼせあがってしまう(このあたりはAV出演を終えた神楽坂が鏡の前でソーセージ売りを実演して遊ぶ場面と重なる)。SODの大型新人としての売り出しが決まりデビュー作で海外ロケが組まれるが、いざ撮影になって緊張のあまり何もできなくなってしまい涙をのむ。「ああ、結局自分には何もないんだ」と自信喪失するわけですよ。それでも彼女は「泣いて、逃げて、うやむやにして、終わりにするような人間じゃないって証明したい」と思いAVの仕事を続けるんですよね。それからセックスに関する考えも変わっていく。「自分勝手に楽しんでいいんだ。なにも相手を射精させることだけを考える必要はないんだ」と。その後、家族に知られ猛反対されても、元彼にひどい中傷を受けてもかすみはAVの仕事にしがみつきつづける。それはかすみがAVの仕事を通して納得できる自己をつかんだということだとおもうんです。

 ザック・スナイダーの『エンジェル ウォーズ』では美少女たちが自由をつかむために戦闘します。戦闘といってもそれは潜在意識の中の世界でじっさいには扇情的なダンスを踊る、ひいては色仕掛けで男から必要なものを盗んでいることが暗示されている。美少女たちが性的に搾取されている事実を、あたかも主体的な戦闘であるかのように偽装しているわけです。私は当初、このコンセプトに少し困惑した。でもいろいろと考えて、今ではこの評判の悪い作品が心の底から好きだといえるようになりました。確かに美少女たちはひどい目にあっているかもしれない。でもそれは男性主義に支配された閉鎖空間の中で彼女たちに許された唯一の手段なんです。映像では武装して威勢よく戦っているけど、本当は過酷な負け戦である。でも彼女たちの心の中では男性の欲望に決して屈していない戦いなわけです。公開版より長いエクステンデッドカットでは彼女たちのそうした精神性がますます浮き彫りになっている。
 無関係の話をしているようだが、私が言いたいのはたとえ男性側の欲望の中にいても、それとは独立した自己なり欲望なりを得ることはできるということです。でも『恋の罪』の神楽坂や水野は、男性主体的な(かすみの言葉を借りるなら「射精させることを考えた」)セックスから逃れ切れていない。むしろその心地よい自己肯定に甘んじているように思えたんですよ。だから私にはただただ表層的に女性の心理をなぞっているだけにしか見えず、まったく心に響かなかったんだとおもいます。
三者にとってのセックスが「裏の顔」のように描かれ、あたかも抑圧された現実からのエクソダスであるかのように描かれるのはどうしてなのか。そもそも彼女たちの「日常」は映画で言われているほど空虚で満たされないものなのでしょうか。私はもともとこんなふうに女性が自らの欲望や変身願望にあえいでいくうちに怪物化していく話が大好物なんですよ。『怒りの日』『奇妙な女』『反撥』『主婦マリーがしたこと』『ふるえて眠れ』。ああ、こういう性格の人がこういう状況に陥って、なおかつ逃げ出すことができないとしたら、こうなってしまうようなあと共感できるわけです。でも『恋の罪』の女性たちがそこまで追い詰められているようにはちょっと見えなかった。あの状況の中でもセックス以外に実存を見つける方法はいくらでもあるようにおもえてならなかったんです。それをお家芸の「熱演」で押し切られた印象がぬぐえず、本気で題材に取り組んでいるようには見えませんでした。